ガッチャマンクラウズ インサイト 第8話 感想 「抑圧された良い子の魂がファシズムを生み出す」(10375文字)

 

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 それではガッチャマンクラウズインサイト第8話「cluster」の感想を書いていこうと思います。

 

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 橙色の吹き出しが赤に変わり、中からくうさまが出てくる。

 橙色というのは、赤色と黄色の中間色らしいですね。実際、「黄色→橙→赤」という順序で色が変わっています。

 橙色の心理的効果というのをぐぐってみたところ、イメージとしては、「朗らかで」「親しみ易く」「協調性に富む」色という感じですね。こう友達いっぱいで、常に一人で居ることはなく、四六時中ハイテンションでニコニコ騒ぎ周っているようなリア充的なものを連想します。

 

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「そう来たっすか―。行くっすよー!」

 

 REC

 

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「大丈夫? いたかったね、よちよち」

「毎日つらいよなー、元気かー、大丈夫大丈夫。よちよち」

 

 

 突如現れた謎の生命体にガッチャマンが出動する。

 ですが彼らは街中で暴れるようなこともなく、むしろ友好的な態度を示します。なんか気持ち悪いくらいに。

 共感的な態度で接近し、やわらかかで大きいぬいぐるみのような身体で抱擁する。

 すると人々の吹き出しは橙から赤へと変化します。

 

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「貴様ら覚悟しろ!」

 

 あ、丈さんお疲れ様っす。

 

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「あ! はじめちゃんだー!」

「どもっすー!」

 

 謎の生命体が自分の名前を知っていることを疑問に思うはじめちゃん。

 

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「ゲルちゃん危ない!」

 

 目の前に現れた謎の生物がゲルサドラに危害を加えると思ったつばさちゃんは、即座にバードゴーしようとするが、その手にノートは既に失われている。

 

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「ほんとだ、なんか、きもちぃ」

 

 くうさまに抱きしめられると、つばさちゃんもすぐに毒気を抜かれ安心しやように安らいでしまう。

 

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「待ってパイパイ。優しきとは言え、獣は獣だから油断ならないかもよぉ」

 

 パイパイは即座に街に馴染んでしまったくうさまに対し無思考なまま安全宣言を出そうとする。それに対し、JJの予言をちゃんと受け取ろうとするO.Dはと表現されていることを忠告する。

 

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「うつつちゃん、どないしはったん? 一つになれば安心やで」

「うつうつ……しますぅ」

 

 初めはとまどっていたうつつちゃんであったが、くうさまに抱きしめられると安心したように目蓋を落としてしまう。

 

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「ほら、彼らは実に友好的で、僕らの悩みをなんでも聞いてくれる優しい生きものです。みんなも偏見や争いの心を捨てて、くうさまと仲良くしましょう」

 

 もうなんかこの構図だけでやばさをひしひしと感じるやろwww

 

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 出されたメロンに、獣のようにかぶりつくくうさま。

 

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「これはまずいな」

 

 みんながくうさまと共に一つに同調する中、ゆるじいは一人自分の呼吸を確かめます。事態がどんどんまずい方向へ向かっていることをゆるじいは明確に認識している様子。

 

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「僕は鈴木理詰夢の言葉を思い出した。彼は言った。そのうちみんな、本当の猿になると」

 

 どうやらくうさまの出現によって生まれた今の人々の状態がリズムくんの言う本当の猿みたいですね。

 るいるいがかつらを外して女性の装いをやめるようですが、さて。

 

 女装の意味合いについて思うところを書いておくと、簡単に言って自我を守る意味合いというのは思いつき易いですよね。弱く傷つき易い本当の自分を隠すみたいなことです。

 じゃあ他はなにかというと、ジェンダー的な問題とでもいうのですかね。るいるいにとって女性の装いをするのが自分にとってしっくりくるからしているというだけ。そんなことを言うと、じゃあるいるいは心が女性で身体は男なのだなとか思われるかもしれませんがそんなバカみたいな単純な話じゃないです。所謂、トランスジェンダー。男とか女とか、文化社会的に押し付けられた性認識の枠組みを超えた、別の性自認というのがある。

 僕はるいるいが自我を守っているとかそんなんじゃなくて、こっちじゃないかなぁと思ってます。るいるい自身の性自認は社会的な意味合いでの女性ではないし、むしろどちらかと言えば男性だけれど、女性のものとされる装いをするほうがしっくりくるからそうしているだけ。それ以上でもそれ以下でもない。何か枠に当てはめて理解しようと押し付けることに対する批判的な存在としてのキャラクターであるとすれば、テーマ的にも彼の主張的にもしっくりきます。

 

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「ほぅん、理詰夢さんやるっすねぇ。僕が気になるのはこの子たちが僕らの名前を知ってるってことっす」

 

 人々に抱擁を与え骨抜きにしてしまうくうさまを逆にサバ折りにしてしまうはじめちゃんwww

 

 そして、やはりくうさまがみんなの名前を知っていることがはじめちゃんは気になる様子。

 それに対して丈さんはゲルサドラの言う「一つになろう」というフレーズを思い出す。

 くうさまがみんなの名前を知っていることと、一つになること、これの意味するところは――。

 

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「入れるのは簡単だけど、出すのは結構難しい、みんなの大好物ってなーんだ!」

 

 ううん、なんでしょうね。もう少し物語を見ながら考えてみましょう。

 

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「あのー、君たちって、何者なんすかー」

「俺たちは、俺たちだよ」

「自分が何者かわかんないってことっすかぁ?」

「そんなんどうでもいいじゃーん」

「みんなどっから来たっすか。んで、どこに行くっすか?」

「そんなのわかんないよー」

「そうだよわかんないよー」

「「「ゲルルルゥ」」」

「ほぉん、みんな仲良しっすねー」

 

 くうさまの正体をつきとめるために、変身を解いたはじめちゃんは彼らに質問をなげかける。

 自分が何者かなんてどうでもよくて、自分がどのようにして存在しているのかも知らず、自分がどこへ行こうとするのかもわからない。

 ただみんな同じ姿で、同じ掛け声を発して、仲良し。

 

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「はじめちゃん、そんな固いこと言わないで、みんなで一つになって安心しようよ」

「安心っすかー、ってことは、みんな不安ってことっすねー」

「はじめちゃんの話、難しいっすぅー」

「ふぅん、そうすかねー」

「はじめちゃん、一つにならないと困ったことになっちゃうかもよー」

「お、困ったことってなんすかぁ?」

 

 「不安」というキーワードが出てきましたね。ここらへんの議論は過去記事で書いたので割愛。

 とすると、くうさまはそんなみんなの「孤独の不安」につけこんで依存させるような存在なわけですね。

 ううん、結局何か書こうとすると繰り返しになっちゃいますが、人は孤独の不安から逃れるために色んな方策をとろうとするわけです。

 その中の一つに「愛」のアプローチがあると言って、はじめちゃんはその実践者であると最初の記事で書いたわけですが、それ意外の方策はその契機を阻害してしまうわけです。

 自分とは違う他者と分かり合えない痛みを乗り越えた先に、本当の「合一」があると書きましたが、くうさまの存在というのはその真逆なわけですね。

 自分が何も考えなくても、何も表現しなくても、自分のことをわかってくれて、慰めてくれて、抱きしめてくれるような存在。誰もがそんな存在を求めているわけです。

 だったらそれはそれでいいじゃないかという意見もあるかもしれませんが、結局そのような他者というのは「人格のない」存在ですそんな空疎なロボットみたいな存在でも、一時の慰みにはなってくれるかもしれませんが、結局そう遅くないうちにより「寂しさ」を深める結果となるでしょう。

 人格のない他者というのは張り合いがないのです。「退屈」なのです。自分が何かを表現しても手応えを感じない。ばちばちぃ、きらきらぁっとしないのです。「つまらない」のです。

 

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「そうそう僕も赤いのははじめてみたから驚いたんだけど、みんな凄く良い子だちだよ」

「どうして知らないのにそう思うんすかー?」

 

 出会ったばかりで相手のことをよく知らないのに、彼らは良い子たちだと受け入れてしまうゲルサドラ。そんな態度をはじめちゃんは心配だと言う。

 ここで言う「良い子」というのは、ただ自分のことを無批判に受け入れ、同調してくれるからですね。相手が「無人格」に自分と同じものであってくれるときだけ、相手は「良い子」となる。

 「良い子」なんて言うと僕はアドルフ・ヒトラーやそれを支持した大衆の精神を分析して、現代に重要な示唆を与えた「アリス・ミラー」を思い出します。

 

新版 才能ある子のドラマ―真の自己を求めて

新版 才能ある子のドラマ―真の自己を求めて

 

 

 くうさまの正体とは実際のところそのまま関係があるのではないかもしれませんが、かいつまんで紹介すると、親というのは自分の欲求を実現するために、子供が愛情を必要とすることを利用して、自分の都合の良い人格を押し付けることがある、というようなものです。

 そうすると、子供は自分の情動を悪いものとして抑圧しなければなりません。親の愛を得るためには、親の求める「良い子」の人格を装わなくてはならない。やがてその「良い子」の人格が本当に自分であるようになってしまう。しかし、彼らの奥底に押し込められている魂は、その押し付けられた人格と矛盾を抱えているので、様々な歪を表出することになる。各種精神疾患はもとより、大変なのはそのような人格を抱えた大衆は、その抑圧への復讐の対象をみつけると喜んで攻撃性を露わにするということです。こうして様々な経済的要因も絡み合って、ファシズムが完成する。

 

 とまあ、このお話は直接には関係しないかもしれませんが、人は自分の思い通りになってくれる「良い子」を欲するという点は言えるかもしれません。

 くうさまは、アリス・ミラーが言うような親が子供に求める類の「良い子」ではありませんが、自分にとって都合のよい存在という意味で「良い子」だということにはそう大きな違いはありませんね。

 「良い子」が大衆化すると、その抑圧は異分子(排除されて当然の悪い子、抑圧された自分自身)への暴力性となって発露するとフロムもミラーもファシズムを喝破したのですがさて。

 

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「はじめちゃんも早く一つになろうよ、よちよち」

「なるっすよ、でも今はいいっす、っていうか、ゲルちゃんやっぱ大分身体変わったっすねえ」

 

 これまで「一つになる」ということが、何か不穏なものとして描かれてきましたが、はじめちゃんも「一つになろうとすること」には反対していないのですね。

 そのことは前回の記事で書いた「一つになる」の中身の違いなわけです。あのつばさちゃんに対し言いかけた言葉。

 くうさまのように「無人格」になって一つになるのではなく、お互いの人格をもったまま、少しでも人としての共通の基盤へと理解を深めていくような努力をしよう――苦しい苦しい、でもそれができれば胸がいっぱいになるような嬉しさへと辿り着けるように勇気をもとうということ。

 

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「そお? 自分ではよくわからないけど」

「そうっすよね、自分のことって案外わかんないもんなんすよねぇ」

「先輩、何が言いたいんですか」

「別に何も言いたくないっす。ただの質問っす」

 

 さて、せっかくアリス・ミラーの話しを出したので、その文脈でこの会話を僕的に理解しようとすると、それは「自分の人格が本当に自分のものかは自分で気付くことは難しい」ということです。

 外部から押し付けられ、押し付けられた人格を演じて、そのことによってなんとか生き延びてきた人は、自分の深い情動から生まれる感情というのがわかりません。「自己」というのがわからなくなってしまっている以上、そのうえに生きるための外部インターフェイスを構築しなくていけない。それが世の中に言う「アイデンティティ」。自己を確立するというとき、その自己というのは適応のために欲しくもないけど身につけなくてはいけなかったものかもしれないのです。

 それが本当に自分の感じていることから生まれているものなのか、それとも処世として身につけたものなのか。誰もが社会で生きる必要がある以上、後者はみなが身につけているものです。ただ、それにどれだけ自覚的かというのは、やはり幼少期を過ごしてきたコミュニケーションによって個人差があるのだと思います。彼らの周囲の人間(特に親)が、その子の感情や感性に対して否定的メッセージを送ることなく、必要な知識は、それが知識であるとわかるように教育できるかどうかにかかっている。

 はじめちゃんでさえ、自分の中にあるそれらがいったいどちらに属するものであるのか簡単にはわからないのです。しかし、だからこそ、はじめちゃんは幻想を解こうと考え続ける(質問をする)のですね。物事をちゃんと考えるというのは、押し付けられる幻想を明らかにするということです。そうすることができれば、自分の中にある幻想も明らかとなる。そのとき、ようやく自分が何者であって、自分の中にある自分でないものが何であったのかを――本当の「自分のことを」知ることができる。

 これはとりもなおさず、「真理にのみ依る」という態度。「サティヤーグラハ」

 

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 「先輩、みんな仲良くやってるんだから、いいじゃないですか」

 「ううん、本当にいいかどうか、翼ちゃん、ちゃんと考えたっすか?」

「……っ」

「あと、ゲルちゃんのこと、よおく見たっすか? 本当にゲルちゃん、いつもと一緒っすかぁ?」

「一緒です、ゲルちゃんは何があっても、わたしのかわいい弟です!」

「何があってもっすか? 」

「そうです、うちらは先輩たちとは違うやり方で頑張るって言ったじゃないですか! だからもう、うちらは先輩たちに理解されなくても構いません!」

「そっすよねぇ、僕ら一つにはなれないっすもんねぇ。でもきっと、一つになるときがくるっす。それは今じゃないっす。そんな気がするっす!」

 

 自分が自分であるために、幻想を明らかにしようと思考し続けるはじめちゃんに対し、つばさちゃんは徹底して盲目な少女として描かれてますね。あまりに一貫し続けてちょっとかわいそうですが、それだけ幻想を本当だと思ってしまっている人は、そこから脱するのがいかに難しいかということ。「自分のことって案外わかんないもんなんすよねぇ」。

 幻想を生きる人の一つの特徴はなんでしょうか。それは、自分にとって都合の悪い矛盾は見ようとしないという点に尽きます。

 明らかにゲルサドラの変化は異常で、それに気づいていながら、ゲルちゃんはいつもどおりと言い張る。みんなが一つになれるように頑張るといいながら、自分のことを受け入れない他者は徹底して拒絶する。争いがときには必要という言葉を、争いが好きとねじ曲げて解釈し押し付ける。

 そんなつばさちゃんのロイヤルストレートフラッシュ無知に対し、産婆術的な対話ではじめちゃんは語りかけるわけです。図らずもナチュラルにこういう会話をやってのけるところが凄いですよね。ただその問答法で無知を自覚させられるのが、今のところ視聴者だけというのが辛いところですが。つばさちゃん、頑張れ。

 

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「てめえらの方がよっぽど怖いわぁ! そんな可愛らしい格好して、中身はミーと同じゲス野郎のくせにぃ」

「花摘みまくって死ね、カス、へっ」

 

 wwwwwwwwwwwwwwwww

 wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 

 草生えるはこんなん。

 

 さて、カッツェさん今週もハイテンションですがくうさまをしてミーと同じだと何やら重要そうなことを言っております。

 くうさまは単に優しいだけのぬいぐるみではないようです。カッツェのように、他者に対する憎しみや暴力性を秘めているのでしょうか。

 

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「先輩が争いが好きだって言った訳が」

「好きとは言ってないっすよぉ」

「やっぱり先輩たちに任せなくてよかった。この国はうちらが平和にします。失礼します」

「つばさちゃんガッチャマンなんすけどねぇ。ぼくらより全然ガッチャマンなんすけどねぇ」

 

 つばさちゃんはガッチャマンにとって必要だとか、はじめちゃんはずっとそういうことを言っておりますね。

 ここらへんは理路整然と、言わんとするところを僕は説明できないので、誰か教えてください。

 

※追記

 この直前の、「何があってもっすか?」というはじめちゃんの念押し。

 これは、ゲルサドラに、くうさま(=みんな)が牙を向く展開の暗示のような気がします。

 つまり、みんなとゲルサドラが対立したとき、つばさちゃんは、

 ゲルサドラただ一人のヒーローになれるのか

 ということ。

 自分がなんのために戦い、何を守りたいのか。

 そして、そのために迷わず駈け出していけるのなら、それは一つのヒーローの姿(=ガッチャマン)であると。

 はじめちゃんは、つばさちゃんにそういう未来を見ているのかもしれません。

 

 この予想が当たるかはわかりませんが、そんな王道展開やられたら僕は泣いてしまう。

 

「つばさちゃんガッチャマンなんすけどねぇ。ぼくらより全然ガッチャマンなんすけどねぇ」

 

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「なぞなぞの答え、もちろんミーも大好物っすぅ。でも、ゲルゲルのほうが2万倍好きっすねー、see you、next week...byebye」

「カッツェさん、お疲れっす!」

 

 カッツェのヒント。カッツェが大好物のものとして前回の解答は「他人の不幸」であったわけですが、その源泉はどこかというと、それは人と人との関係性だと思います。

 幸災楽禍のノートは、人と人との関係を断ち切り、人と人とを相争わせる能力。となると、そのためには人々の集まりが必要なわけですね。ということで、答えは今回のタイトル「cluster(群れ)」のことかな。群衆の流れを操作して「祭り」に誘導するという意味では「空気」とかもあるかもしれません。入れる、出す、との関係も分かり易い。

 「集団的な何か」に人「を」入れる、出す。「空気」を自分に入れる、出す。etc...

 

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 サドラにおまかせボタンを押して、自分で考えること、自分の意見をもつことを放棄――自分自身であることを放棄した瞬間に、橙から赤へと変化していく大衆。

 

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 巷では完全にくうさまが浸透し、色の違うものへの同調圧力が強まっていく。

 

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 この気持をどう表現したらいいか私にはわかりません。

 私は私の言葉の貧困さを――いや、言語の持つ力の限界性を呪います。

 そうです、言葉はそれが表現されてしまった瞬間、「表現の対象」と「表現する主体」の関係性を既に離れてしまっているのです。おっぱい。

 

    haji (2015.8.30)「純粋経験による絶対矛盾的自己同一に寄せて」

 

 つまりこれはこういうことです。フェンスにおしつけられたつぶれおっぱいがまずある。そしてそのおっぱいを僕が見た。その瞬間、僕という観察者とおっぱいという観察の対象はその二項対立を超越して、それだけがこの現在同時に存在し、確かな存在はそれのみとなる。そこを離れてしまった時、既にその経験という実在は棄却されて、いかに言葉を尽くそうともその実在を取り戻すことはできないのです。何を言っているのかわからないと思いますが、僕にもわかりません。ただ、そのおっぱいはとても魅力的で表現の仕方を模索するあまり狂気に陥ったというだけの話なのです。

 

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「なぞなぞ解けたっす」

「ほんとっすかはじめたーん」

「これ、ゲルちゃんじゃないっすね」

「ほっほうん……」

「名前が一つじゃないって、そういうことっすかぁ」

 

 はじめちゃんのニューファッション、かわいい。

 はじめちゃんが何を見ていたかというと、赤や橙の吹き出しとともにくうさまを連れ歩く群衆、特にその中に点在するくうさまを連れ歩かない吹き出し様の色がユニークな人たち(と彼らへの視線)です。

 先ほど僕は、赤への変化が自己の放棄だと書きましたが、ようはつまり大衆を構成する無名の個人へと堕することを意味しているのではないですかね。

 名前が一つではないというのは、確たる自己がない、何者でもなく、何者かになってまえるような存在であると。

 そしてそんな何者でもないものでなく、何者かであろうとするものを疎ましく思う人たち(cluster「群衆」)がやはり答えじゃないか。少なくともそれ(集合的なもの)に類する何かだと思いますね。

 とすると、「ゲルちゃんでない」というのはどういうことでしょうか。おそらくこれは次のシーンで総裁Xが述べていることと関わりそうです。つまり、ゲルちゃんが生み出したものではない

 

 ところで、はじめちゃんはよくファッションを変えていますね。

 ファッションというのはアイデンティティの一部であり、自己表現の一つの手段です。

 ファッションを楽しめるというのは一種の余裕の現れだと思います。

 じゃあ余裕のないファッションって何かっていうと、これもまた他者の視線、特に他者が押し付ける視線を意識したファッションだと思います。

 それを着なければいけない(と思い込んでるから)身に付けるとか、逆に他者に埋没したくないがために本当は対して関心もないけど個性的(と他者に思われそう)な服を着るとか。他者の視線に適応するのも、他者の視線に反動するのも、共に縛られていることには変わりない。

 はじめちゃんのキャラ的にはたぶんその時々着たいと思ったらからそれを着ているというような、凄く気軽なものだと思いますね。それがその時どきで自分にとって自然だから身につけているだけ。そういうのもやはり押し付けられた人格ではなく、自己を生きていないとわからなくなるのです。

 

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「みんなぁ、ありがとう。はぁ、最高だぁ。こんな気持ちいい世界があったなんて^^」

「累、くうさまと呼ばれる謎の生物の発生源が明らかになりました」

「Xぅ、もうそんなことどうでもいいって」

「累、しっかりして下さい。あなたの夢である世界のアップデートはまだ果たされていません」

「ふはは、ははぁ、あっぷでーとぉ? そういえばそんなこと言ってたっけぇ。もういいんだよXぅ。どうせ僕の話なんて誰も聞いてくれないし、僕はずっとこのままでいい」

「累!」

「僕はねぇ、猿になったんだぁ」

 

 はい、累くんが堕ちました。

 リズムくんが予言したようになったわけですが、僕は累くんが大衆に絶望して独裁的に振る舞い始めるんじゃないかと思ってたのですよね、5話のときには。

 でもその反対でバーンアウトしちゃいました。

 つばさちゃんの楽園を否定し続けてきた彼が、楽園へ堕することになってしまった。

 ううむ、演技的な可能性はないんでしょうかね。くうさまの暴力性に気づいてとか。いやでも心の色は可視化されているわけだから難しいのか。

 

 とりまそれは置いておいて、Xが何やら言っております。

 くうさまの発生源がわかったと。

 え? それって吹き出しさまで、つまりはゲルちゃんが原因でないの?

 どうやらことはそう単純な構図ではなかったようです。

 くうさまの正体にゲルサドラ自身も心当たりがないことも説明されそうですね。

 集合無意識がゲルちゃんの能力と云々とかそんな感じのあれなのか。

 

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「これで一つになれたねぇ」

 

 ありゃりゃ。ずっと心の色を安易に変えず、青色のままで葛藤から逃げず自分と向き合ってきたアランが優しきに食べられてしまいました。

 

 うむ。穿ちすぎなのを覚悟して書いてみると、このくうさまというのは人々の抑圧された魂なんじゃないか。

 親や共同体、社会の押し付ける「良い子」の人格を自己だと思い込んでしまうと、その人の魂は抑圧され、その葛藤は暴力性へと昇華される。で、その「良い子」の部分は誰にでも多かれ少なかれあるのだということを書いたわけですが、くうさまがその「良い子」だからこそ、魂を抑圧して何かを演じている自分のことをよくわかってくれるわけです。

 そしてその「良い子」が「良い子」であり続けるための原動力というのが「誉められる」こと。よちよち。そしてそんな風に自分たちの歪な姿をわかってくれるのは、何より「僕たち私たち」自身なわけです。いやまあ、吹出し様から出てくるので今更なんですが。

 その「僕たち私たち」の抑圧は、それが集団化すると大きな暴力となって異分子(自分の魂をころさず生きようと葛藤する人)へと発露する。これが心理・社会学的な意味でのファシズムだと言ったわけです。

 くうさまが「僕たち私たち」であるならば、みんなの名前も心も知っていることに納得はいく。

 

 赤い吹き出しとなることが自己の放棄であるならば、それは自分が自分の魂を表現することを完全にやめるということを意味する。それでも生きながらえるために、くうさまが出てきて自分を慰め続けてくれるわけです。

 自分でないものを演じ続けることも、圧力に抗して自分であり続けることも同様にしんどい。後者は今週の累くん。自分であり続けろと叫び続け、終には燃え尽きてしまったのか。

 いずれにせよ、くうさま(喰うさま、空さま)を生み出したのは「自己」から逃避して猿になりたい群衆(cluster)自体でした。くうさまというのは、ゲルサドラに一度取り込まれて一つになって返ってきた「みんな」の、言わば外部端末なのではないでしょうか。

 

 空気とかファシズム的な暴力とかを露骨に題材にしてきていますし、その関連の世界的ベストセラーを読まずに作品を作ろうとするとは思えないので、おそらく監督もそこらへんの知識はあるように思います。

 僕がこの物語を素描したように考えているということはないでしょうが、でも要素としてはあるんじゃないですかね。

 

 ここのところお話が大きく動いて、いよいよガッチャマンも重い腰を上げなくてはいけなくなりそうです。

 一周遅れで待ちくたびれましたが、今週も面白かった。

 それではまた。