「これは須藤友徳のheaven's feelである」 Fate/stay night[heaven's feel(ヘブンズフィール)]第2章 感想

 

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 オルタマンタベタ。クロゴマ、オイシカッタ

 

 前回の記事では、劇場に足を運んだ後のその熱量のままに書き始めてしまったせいか、冒頭から全て書き出し始めるという暴挙をやり出したんです/が、やや落ち着いて、この調子だと全部書ききれるのかわからんということで、改めて感想記事を書くことにしました(現在非公開)。

(2章全編のネタバレあり。気を遣ってはいますが、微妙に3章以降に触れてる部分もあるかも知れませんので、気にする方はご注意を)

 

目次(リンクはない)

・須藤友徳という狂気

・電車に一人残される幼い桜

・図書室での戦闘シーン

・教会の窓から逃げる桜と残された合鍵

・rain

・衛宮家の食卓 featライダー

・変容していく桜

バーサーカーVSセイバーオルタ

・アーチャーの最後

・士郎に移植されたアーチャーの腕

・士郎と桜の情事

・桜の夜の徘徊

・英雄王の最後

藤ねえと桜の会話

衛宮士郎の涙

・ラストシーン、間桐慎二という男

・最後に

・その他細かいこと

 

須藤友徳という狂気

 さて、まず端的に結論めいたことを言うと、これは須藤友徳監督のheaven's feelであるということですね。奈須きのこが書いたheaven's feelを吸収し、何年も熟成させたうえで、この脚本で描かれているテーマや人物をより深く、多くの人に伝えるにはどうすればいいかという須藤監督の情熱が伝わってくる劇場化再編。そしてそれを、とんでもない完成度でやってのけたのが、劇場版heaven's feelであるのだと思います。まだ3章があるので「やってのけた」というのは変だけれど、2章を見ると、もうここで既にそれを言ってしまっても言い過ぎではないと思わされるような衝撃。ともすれば狂気とさえ感じられる執念が、そこには垣間見える。

 というわけで、この記事では原作Fate/stay night[heaven's feel]というより、そこから須藤監督がどのように劇場版heaven's feel第2章として、作品を昇華したのか、その変更点や演出について思い至る限りのポイントを箇条書きで書いていこうかと思っております。長くなるかと思いますがお付き合いくださいませ。

 

電車に一人残される幼い桜

 序盤の追加シーンですね。誰も居ない列車の座席に、間桐にもらわれてきた頃の幼い桜が座っています。すると、窓の向こうにはもう一台の列車があり、そこには幸せそうに寄り合って座る、凛と時臣、葵の姿が。列車は動き出し、幼い桜だけを残して離れて行ってしまいます。それに桜は追い縋るのですが、転んでしまう。すると列車内のあらゆる隙間から虫たちが這いだしてきて、渦を作るように桜を飲み込もうと迫る。そこで現在の桜が目を覚まします。
 Fateのこれまでの作品では、桜と凛の関係にはあまりフィーチャーされてきておらず、heaven's feelにおいて二人の関係について知っていくという人も多いかと思いますが、桜が凛や遠坂家に対して(意識的にせよ無意識的にせよ)どのような感情を抱いているのかが象徴的にわかるシーンとなっております。
 自分は遠坂の家から捨てられ、置いていかれた存在だと。そして姉さんは、捨てられた自分が間桐の家でどのような扱いを受け、どれだけ辛い生活を強いられてきたかも知らず、幸せに愛されて育ったに違いないんだと。
 そこらへんの凛に対する恨み節と、それに対する凛の応答というのは3章で繰り広げられるので、ここでは深く述べませんが、まずは桜の境遇や思いの一端として、見る人にわかりやすく刷り込んでおくうまい追加シーンでした。

 

図書室での戦闘シーン

 原作では廊下でしたが図書室での戦闘に変更された士郎VSライダーのシーン。本棚が所狭しと並ぶ室内ですので、縦横無尽に飛び回るライダーの戦闘がより迫力を増して描かれていました。
 前回の記事でも書きましたが、ここで特によかった改変がライダーの拳を受けられた理由付けとしての強化魔術。これがあることによって、士郎の魔術師としての見せ場を作りつつ、慎二のコンプレックスをよりうまく印象づけることに成功しています。非常に巧みな追加演出。
 そして、いよいよお遊びをやめた慎二によってライダーが士郎を殺しにかかるわけですが、ここに窓から乱入してくる形で、凛とアーチャーがやってきました。ここの劇伴が完全にヒーロー登場のそれでめちゃくちゃかっこいいうえに盛り上がる。
 次いでライダーのマスターが桜だと明確になるシーンですが、ここの演出もまたいじわるで、魔術師として対峙する三者が何事か喚き散らす慎二をまるっきり無視して会話を続けるわけです(主に凛が喋り続けてるわけですがw)。こうした演出の追加によって、慎二のコンプレックスが、より強く見る人に印象付けられていくわけですね。

 あと個人的にこの場面で印象に残ったのは桜の暴走シーンで、原作で最後に士郎を貫いた棘の描写を拡大した演出になっていましたね。桜の魔術師としての側面も描写しているわけです。こうしたキャラをもっと魅力的に贅沢に見る人に伝えたいという細かい追加が全体的に見えて、製作者の熱が伝わってくる。
 最後棘に全身を串刺しにされる桜は痛々しいんですが、あえてそうした絵を追加したこだわりはわかる。そのエグさがこのルートの魅力でもあるので。

 そんでこれも前回書いたので繰り返しになり恐縮ですが、ライダー超美人。ゴルゴーンまじ怖い。

 

教会の窓から逃げる桜と残された合鍵

 鍵というモチーフも、原作から一段と強調された演出だと思います。それは第1章の段階からそうで、fateを象徴するセイバーとの出会い、冒頭の導入を全カットしてまで、桜と士郎の馴れ初めをもってくるくらいの力の入れっぷり。

 

「大切な人から大切なものをもらったのは、これで二度目です」

 

 衛宮邸の鍵というのおそらく、自らのものを何も与えられずただ道具として生きるしかなかった桜が、衛宮の監視というきっかけはあれど、初めて己の意思でつかみ取った宝物であるわけです。それを捨て去ることの意味。自分が自分らしく、人間らしく居られる唯一の帰る場所を諦めるということの絶望は筆舌に尽くしがたい

 ちなみに二度目というのはあえて言わなくても察せられると思いますが、一応ヒントを言いますと士郎が見ていた写真の中のあの人のあれ(反転)です。尊いね。

rain

 雨の中、行き場を失った桜を抱きとめて、桜だけの正義の味方になることを誓う、heaven's feelの象徴ともいえる場面ですね。

 もう先輩のそばに居る資格はないと自分を否定し、桜が大切なんだと詰め寄る士郎を、桜は拒絶します。しかしこれは完全な拒絶ではなく、士郎を傷つけたくないし、自分も傷つきたくない、でも本当は自分を救ってほしいという、複雑に感情が入り交じった拒絶です。

 そんな揺れ動く桜の言葉をただ受け止めてあげるように、士郎は一歩一歩桜の元へと着実に歩みを進めていく。映像では、そんな士郎の決意を示すように、濡れた地面を踏みしめる士郎の歩みと眼差しが強調されます。

 そんな士郎の意思を強く表す演出と、自分がいかに救われるに値しない人間かと否定の言葉を紡ぐ桜を士郎の主観で描くことによって、士郎が桜の元へと到達するそのシーンへの期待が高まっていくわけです。そこで挿入される次のセリフ。

 

「先輩、わたし、処女じゃないんですよ?」

 

 ここで一瞬、不意を突かれたようにヒーローの覚悟に戸惑いが生まれる。

 桜にとって衛宮士郎というのはきれいで崇高なものの象徴です。間桐という没落した魔術師の家で、幼い頃からずっと肉体をいじられ、間桐の魔術師として改造され続けてた自分は、そんな穢れのない先輩の隣にはいられないんだという、絶望的な思いを集約したセリフがこれであるわけです。

 士郎が桜の思いのそのすべてを読み取ったわけではないでしょうが、そんな普通の女の子であれば、よほど特殊な状況でもなければする必要のない悲痛な告白を、もうこれ以上言わせまいと遮るように、また一瞬であっても狼狽えてしまった弱い自分を叱責するように、士郎は桜のことを抱きしめる。

 そして、桜だけの正義の味方になるという誓いと共に、あの鍵を再び桜の手に握らせるのでした。

 こうした一連の流れも、原作とから再編してきていますが、元がかなり長い会話ですので、映像表現に落とし込むにあたって、非常に練られているものといえます。

 桜のこのセリフは、レアルタにおいて年齢制限の都合でカットされたものでしたが、第2章はPG12にレーティングを引き上げることで、こうした微妙なラインの描写も入れてきており、須藤監督のこだわりが垣間見えます。

 

衛宮家の食卓 featライダー

 2時間映画に収めるにあたって、ちょっとした日常会話などは結構カットされているのですが、おそらくカットされちゃうかなーと思ったものに、衛宮亭でのライダーとの寸劇があります。

 これまで敵対しており、しかも絶世の美女であるライダーが食卓に居ることに士郎はどうにも落ち着かないわけなんですが、桜はライダーを除け者にしたくない。そんな桜に対し、ライダーが美人で落ち着かないということを白状した結果、修羅場に陥るというコミカルなシーン。

 これは尺の都合か、場面の落差に配慮してかはわかりませんがカットされた代わりに、座敷で顔を突き合わせて食卓を囲むあなた方の作法が合わないというライダーに、洋式の食器を用意するというずれた?対応をするというシーンが用意されました。

 いずれにせよ、仮初だとしても日常に帰ってきたことと、ライダーに対する親しみを感じさせる場面なので、内容は多少変化していますが、残されていてよかったと思います。

 

変容していく桜

 2章の雰囲気を象徴するものとしては、桜の様子の変容過程というのがあります。これはサブタイトルのlost butterflyからも読み取ることができますね。

 18禁版ではいずれのルートでもヒロインの性描写があるわけですが、桜は他ルートと比べてもそれがかなり多いといえます。原作では、傷ついた先輩の鍛え抜かれた肉体を見て自慰をするというものでしたが、なんと劇場版でもカットせずに入れてきました。

 劇場版では森に向かう士郎を見送ったあと、魔力が欠乏した桜が男の精(魔力)を求めて身体を火照らせた結果という描写。その前には、レアルタでレーティングをクリアするために導入した、血液を介して魔力を受け取るという描写も映像化されておりました。いいとこ取り。須藤監督は実に欲張りですね!

 その後汚れた手を洗うというシーンに移るのですが、そこで外に出れない程に四肢の一本でも失ってしまえばもう先輩が傷つくこともなくて安心だと、それまでの桜からは考えられないような矛盾する言葉を口にします。この独白は原作通りですが、正気に戻った桜が洗面所を出ていった後、鏡に映った聖杯の影が後から彼女に追い縋るというホラーな描写が追加されました。

 性描写の原作準拠と、そうした細かなホラー描写まで含めて、作品の空気感、テイストというものへのこだわりが感じられます。

 

バーサーカーVSセイバーオルタ

 劇場版heaven's feelの最大の見せ場といっても過言ではないのが、このバーサーカーとセイバーオルタの戦闘。

 原作では影に絡めとられたバーサーカーが、イリヤの声に応えて肉体を引きちぎりながらセイバーに肉薄するも敗れるという一瞬の描写でした。しかし、この劇場版では遂に影の拘束を逃れ、セイバーとの真っ向勝負を開始する。

 対するセイバーは聖杯によるバックアップを得た魔力無尽蔵のチート性能。魔力放出は言わずもがな、最大出力最大威力の聖剣でもって地上のすべてを焼き払うが如く連発しまくります。この聖剣の威力がまたとんでもない。地を焼き払う破壊の恐ろしさだけでなく、美しいとさえ思えるような輝き。

 そんなもはや笑いがこみあげてくるようなやりたい放題のセイバーに対し、バーサーカーは十二の試練でもって対抗します。次々聖剣を放とうとするセイバーに対し、超速の動きでもって肉薄しては、必殺の打撃を叩き込みまくる。焼き払われては復活しセイバーに迫っては焼き払われ、そしてまた復活する。そのあまりの奮闘ぶり、勇壮ぶりに、プリキュアを応援する女児の如くバーサーカー頑張れっ!!!と心の中で叫びを上げること間違いなし。(あれまじで何回やられたんだろうか。次見に行ったら数えてみよう)

 色々書いていますが、もうこれは劇場に足を運んでもらうしかありません。BDやテレビ放送を待てばいいやとか思って見逃すやつは反省するように。 

 

アーチャーの最後

 原作では黒い影の膨張から凛を庇って致命傷を負ったアーチャー。劇場版では、影の膨張から身を挺してみんなを守る描写が追加されていました。そこで使ったのがステイナイトにおいて屈指の守りを誇るアーチャーの盾、ローアイアス。泥に飲み込まれながらも腕を突き出し、あの詠唱を紡ぎます。その姿がまたかっこよく、熱い。そしてただ見せ場を作ったというだけでなく、それを士郎がしっかりと目にしたことで、後の展開への伏線にもなっているという秀逸さ。期待で胸が踊ります。

 しかし、アイアスの守りであっても影の放つ魔力の奔流は防ぎれず、アーチャーは瀕死、士郎も左腕を失う結果となる。ここで追い打ちの如く追加されたシーンが、凛へかける最後の言葉。乱れた彼女の髪を優しく撫でながら彼は言いました。

 

「達者でな、遠坂」

 

 もうアーチャークラスタの方々は感涙ものではないでしょうか。

 次から次へと「わかってる」演出をぶっこんでくる須藤監督はやはりおかしい(褒めている)。

 

士郎に移植されたアーチャーの腕

 heaven's feelにおけるきのこの脚本の特徴としては、とにかく「痛い」というのがあります。士郎が感じている痛みや苦しみがこれでもかというほど痛々しく描写されまくるんですね。それによって、アーチャーの腕に巻かれている聖骸布を外すのはどれだけヤバイかというのが、読んでいる者には伝わるんですが、映像化にあたってはそれをどう伝えるかというのが一つの課題としてあったと思います。

 で、実際にどうしたかというと、お風呂場で聖骸布をほんの少し捲った士郎はその瞬間意識を失い、「アーチャーの魔術回路によって浸食された自分がゲル状になって落下し、地面にぶつかってベシャリと散ってしまう」という幻視をする。

 アーチャーの腕を使ったら最後、腕に侵食されて衛宮士郎という自分は跡形もなく消え去ってしまうという事実を、その一瞬だけで強烈に理解するわけです。誰かを救うためであれば、平気で自らの命を危険にさらしてしまう士郎ですが、その自分という存在を失う恐怖への自覚は、絶対にこの腕を使ってはだめだと彼をもってしても決意するほどのものであったわけです。映画を見ている人にもそれが伝わる巧みな描写でした。

 

 士郎と桜の情事

 桜の自慰シーンなんてあったことからもう予想はつくわけですが、基本的にはPC準拠の劇場化、士郎と桜が結ばれるシーンというのもストレートにぶっこんできました。

 細かい流れがちょっとあやふやになってしまったのですが、確か土蔵で士郎と凛が例の高跳びの思い出について会話しているところを桜が聞いてしまう。桜が士郎を理想化するきっかけ、その出会いの大切な思い出が自分だけのものではなかったという事実。その不安から、士郎との繋がりを確かなものにしようとするかのように、部屋へとやってくるという流れだったかなと思います。

 魔力の補充という理由付けはあれど、heaven's feelというラブロマンスを描くにあたって、破綻なく二人の関係の深まりを紡いでいっていると思いました。セックスを描くかどうかによっても、描かれる関係の重みというのは変わってくるわけで、そこをやりきりたいという監督の熱量がここでも伝わってきます。

 PS2化するにあたっては、そうしたレーティングに触れる描写を改変するくらいだったら、ばっさりheaven's feelをカットしましょうかという議論もあったらしいですね。性描写周りの表現は、慎二との関係、エピソードの重さにも密接に関わってくるところですので、製作者サイドとしてはずっと葛藤があったのだと思います。そこを今回はやりきった。

 

桜の夜の徘徊

 heaven's feel屈指の恐ろしさを誇る桜の夜のお散歩シーン。ここをどう描写するのかと思ったらもう予想もつかないような変化球をぶん投げてきました。

 まさかのディ◯ニーランド。そうかー桜視点ではこう見えていたのかー(棒)

 唐突に始まるメルヘンチックな世界観。その中でドレスに身を包んだお姫様となった桜は愉快な森の生物に導かれてお城へと歩みを進めていきます。途中の川にはぬいぐるみになって流れていく、取り込まれたサーヴァントたち。

 お城へ入るとそこは行き止まりの部屋(袋小路の路地裏)。壁に掛けられた絵画(室外機かな?)の影からお調子者のぬいぐるみ(深夜のDQN)たちが現れます。桜へいたずら(意味深)しようとするぬいぐるみたちを、桜がめっするとなんと驚くことにたちまち四散、おいしそうな飴玉へと姿を変えるのでした(白目)。

 

「ーー精が出るな。だからあの時死んでおけと言ったのだ」

 

 はい、そして我らが英雄王ご登場。すべての現実が明らかになるのでした。

 

英雄王の最後

 いよいよ街の人々を見境なく襲うようになった聖杯の影に対し、世界は自分の庭だと自負するギルガメッシュは、影のやりたい放題を許すことをしません。聖杯として機能し始め、その中身を漏らしだした桜を破壊するために現れたのですね。

 そして遂に桜の首を落とそうと詰め寄る英雄王ですが、なにかに足をとられたかのうようにつんのめります。

 英雄王まさかの転ける。しかしあわやというところで静止、地面に手を着きそうになったところで踏みとどまります。さすが英雄王、すごい体幹。膝をつかされそうになったギルガメッシュはキレます。ですが、倒れされた電灯に照らされた桜の影を見るなり、どこか感嘆するような趣きで次の言葉を発するのでした。

 

「ーーほう、よもやそこまで」

「ーーあーんっ」

 

 それがheaven's feelというルートにおける英雄王の最後。無邪気に笑みを浮かべる桜によって影の中へ一呑みにされしまう。

 ここの改変も実によかったと思います。

 原作では桜を殺しきれずに狼狽えたままあっけなく飲み込まれてしまう(「よもやそこまガっーー!!!」最後まで言わせてもらえない英雄王)

 しかし劇場版では未だ余裕と貫禄を伺わせるような描写に変わっています。

 英雄王とさらに街の人々を飲み込む瞬間の「あーんっ」という桜の無邪気な狂気もまたオリジナル。

 英雄王の威厳を維持すると同時に、桜の状態のヤバさというのも伝えられるという、巧みな演出プランでした。

 

藤ねえと桜の会話

 事態はどん底、物語は混迷と絶望を極めた感のある終盤、ここでまさかの藤ねえが登場します。これは原作にはありません。

 オリジナルということもあり、会話の詳細まではちょっと覚えてないんですが思い出しながら思うところを書こうと思います。

 藤姉と言えばFateにおいては日常の象徴とも言える存在、しかし彼女もまた多くの登場人物と同様に大切な存在を失った人でもあります。

 衛宮切嗣。まだ女子高生だった頃の藤ねえの想い人にして、衛宮士郎の義理の父親。士郎の正義の味方としての原点である彼を見ていた藤ねえだからこそ、見えるものというのもあるのではないか。

 自分は先輩の夢を壊してしまう存在なのだと桜が言うと、藤姉はただ「どうして?」と優しく問いかけます。桜は自分が悪い人間だからと答える。

 そんな桜の葛藤に対し、藤ねえは切嗣の姿を思い出します。日頃から屋敷を開けることが多く、いつかどこかへ消え去ってしまうんじゃないかと思わせる切嗣に、藤ねえも付いていこうとしていた。でもそんな彼の旅というのは、彼の大切な誰かに会うためのものだと藤ねえは気づいていたんですね。

 そんな切嗣の姿を知っている藤ねえは、誰か大切な人のための正義の味方だって居ていいんじゃないかと桜に語ります。そして桜は士郎の側に居ていいし、側に居てあげて欲しいと桜を抱きしめてあげる。

 聖杯戦争という日常の裏で起こっていることを藤ねえは知らないけれど、日常の中に居ていわば二人の保護者、大人という立ち位置であるからこそ言ってあげられることというのもあるのだと思いました。普段おちゃらけてる藤ねえの大人としての優しい声を聞いてるだけで僕は泣けてきてしまいました。

 そしてもう一つ重要な意味としては、イリヤの存在ですね。おそらくイリヤは、この会話を盗み聞いたことで、切嗣が自分のことを必死に探していたんだということを知ると同時に、これからの衛宮士郎という人間の新しい在り方には桜が必要なのだということを認識する。

 それはイリヤに対する救済でもあり、士郎のお姉ちゃんとしての後の決断にも繋がる重要な心情の変化、伏線でもあると思います。

 原作では士郎との道すがらの重要会話があったりしたんですが、そこをカットして、藤ねえを登場させた。それは、桜とイリヤの物語を同時に推し進める演出として導入したのだと思いました。

 藤ねえ役の伊藤美紀さんの、このシーンに対する思い入れというのは、ネットラジオの方で少し言及されているので、よかったら皆さん聴いてみてください。

 

衛宮士郎の涙

 僕が個人的に、最も心を揺さぶられたシーンがここでした。

 heaven's feelには有名な鉄心ENDという結末があります。桜が魔力を暴走させたとき、教会で桜を処分するという選択をした場合のエンディング。十を救うために一を殺し続けるという選択をした、衛宮士郎の結末。劇場版では当然このエンドは回避されるはずであることは明らかなんですが、欲張りな須藤監督、鉄心エミヤらしき白髪の士郎が桜を処刑するカットを、士郎の幻視として導入しております。

 一端はそのルートを回避した士郎ですが、街の人々が消え去っていくのは、桜を門として現出している聖杯の中身によるものだと、臓硯に現実を突きつけられます。そして、正義の味方としての義務を果たすために、心を凍らせて桜の床に立つ。

 雨の中、桜だけの正義の味方になると誓った士郎でしたが、実感としてそれがどういうことであるのか、ことここに至って突きつけられたということですね。

 しかし、ナイフを振り下ろすことは結局できなかった。刃先は桜を狙い定めたまま、士郎の脳裏には長い年月を共にした彼女との思い出が蘇ります。

 そして衛宮士郎は涙を流す。それはもう抑えられず溢れてくるというような涙と嗚咽。

 より多くの人間を救うためにその全存在をかける、そのような正義の味方であるはずの衛宮士郎と、ただ誰よりも大切な存在を愛おしく思う衛宮士郎の葛藤。

 

「ーー裏切るのか」

 

 衛宮士郎が壊れてしまう。

 それはおそらく、切嗣が死んだ時以来の、自身の強い感情のために流す涙でした。

 そして遂に、刃を振り下ろせなかった士郎は、それまでの自分自身と決別して部屋をあとにする。

 

「ーー裏切るとも」

 

 そして、その一部始終を起きて見守っていた桜は、彼を見送ると静かに見開いた目から涙を溢れさせる。

 ああ、自分という存在が、これまでの衛宮士郎という人間の生き方を、決定的に壊し変えてしまったんだと知ったのでした。

 

 原作では、士郎はこんなに涙を溢れさせてはおらず、心の葛藤を経て、静かに自分は桜を殺せないということを自覚し、それまでの自分と決別します。

 そして実は起きていた桜との会話がある。

 そうしたものをカットして、大胆に演出を変えてきたのがこのシーンなんですね。

 原作からして超重要シーンです。なのに、初めからこれ以外にないんじゃないかと思わせるような流れになっています。

 UBWを経て、衛宮士郎という人間を知っているからこそ、僕はこのシーンで涙がこらえられませんでした。

 恐ろしい原作理解と、それをいかに伝えるかという、映像化にあたっての情熱のなせる技でした。

 

 そして最後。慎二、あとはお前だけだ。

 

ラストシーン、間桐慎二という男

 1章の時点から匂わせておりましたが、慎二が何やら調合していた小瓶がここで再登場します。

 臓硯との決着をつけ、幕引きするために間桐亭へと戻ってきた桜を待ち受けていたかのように、慎二が現れる。すると桜に小瓶を放り投げます。

 

「危ないもんじゃないよ」

 

 桜がそれを手にすると、小瓶は薄緑色に輝き始める。

 

「すごいなぁ、桜は。

 いつか遠坂だって超えられるんじゃないか」

 

 妙に穏やかな声で桜を褒める慎二。日頃、自分をモノ同然に扱い、優しさなんて見せることない兄の言葉に、何か思いがけないものを見たように桜は驚きと疑問の表情を返します。

 これもオリジナルの描写。

 間桐という魔術師の家系に生まれた慎二は、いつか魔術師としての能力が発現することを願って、書物等から魔術知識を仕入れては実験を行っていたということなんですね。

 原作において慎二の過去、境遇というのは回想というかたちで、テキストのみで描写されます。

 魔術師の家系として代を重ねながらも、その魔術的素養を少しづつ失っていった間桐は、慎二の代で遂にそのすべてを失ってしまう。そんな間桐ですが、慎二は自分が魔術師の家系の生まれであるということに幼少期から特別感を抱いていました。そんな折にもらわれてきたのが、桜だったわけです。

 初め慎二は桜が何のためにやってきたのか知りません。ただもらわれてきた一般人。特別な自分と、憐れで無力な少女。そんな桜に、歪んだ優越感であっても、妹としての愛情めいたものはあった。

 しかし、慎二は知ってしまうわけです。特別なのは桜であって、憐れで無価値なのは自分であったと。その事実を知る出来事からは、間桐家の中で慎二は完全に居場所がなくなった。ただそこに居るだけの人間。それまでとは一変して、開き直ったかのように、親からもどうでもいい存在として扱われる。

 慎二の歪みというのは、間桐という元からの環境や素養もあったかもしれないけれど、この出来事、関係性を通じて拍車がかかっていくわけです。

 そうした経緯を2時間の尺の中で伝えきるのが難しかったというのもあったと思います。そこで用意されたのが、この小瓶であり、これまでも積み上げられてきた、慎二のコンプレックスの描写であったわけですね。

 桜はそんな慎二の歪みのはけ口にずっとされてきたわけでした。

 しかし、そんな桜もまた、衛宮の監視というきっかけによって、士郎に奪われてしまった。素直ではなかったけれど、かつて友情めいたものを感じていた士郎との確執というのは、こんなところにもある。

 そして聖杯戦争。戦うことを拒否する桜の代わりとして、それに勝利することが、自分を周囲に認めさせる最後のチャンスだった。

 しかし、そんな悲壮な願いも、すべては甘い幻想だった。結局何もできず敗退し、誰にも見向きされず彷徨うしかない。

 もうあとできることがあるとすれば、自分の所有物であるはずの桜を取り返し、その確認をすることだけ。そしてこのシーンに繋がるわけです。

 ベッドに桜を押し倒した慎二は、桜を殴りつける。静かになった桜を見て安心する。これまでそうやって大人しくさせてきたように、同じ方法を確認する。

 しかし、ここで思わぬ反撃に遭います。

 

「わたしは兄さんのものじゃない。わたしはもう、先輩のものなんだから……!」

 

 士郎と身体を重ねた桜にとって、ここで慎二に犯されることは、もう耐えられないものだった。

 自分の自由にできる人形だったはずのものが自分の意思をもって自分に反抗している。桜を自由にできるという事実が、慎二にとって唯一最後の拠り所だったのに、その桜が自分に強く反抗している。

 受け入れがたい現実。怒りに身体を震わせ、慎二は桜に告げます。

 

「ああだから、衛宮にもちゃんと教えてやらないとな!いままでお前がどれくらい僕に縋り付いてきて、どれくらい汚らしく交わってきたかってコトをさぁ……!」

 

 それを聞いた桜は絶望する。今まで義理とはいえ兄に犯されてきたという事実を知られたくないということだけでなく、自分のために心を壊した士郎をこれ以上傷つけたくない。

 もうどうすることもできなくなった桜は、遂に思ってしまう。

 

「ーーこんな人、いなければいいのに」

 

 そして最後の瞬間。「人類に害為す」、そのことだけに特化した汚れた願望器と繋がった桜の、そんなふと頭をよぎった願いは、たちどころに叶えられてしまうのでした。

 

 最後の言葉を告げたときの慎二は泣いていました。これもまた劇場版オリジナルの演出ですね。

 もう慎二もわかっているわけです。何をしようと自分が望むものは何も得られない。ここで桜を犯したって、それを士郎にばらしたって何も変わらないし、何も得られない。

 父や祖父から認められることはなく、桜も得られず、士郎との関係ももう戻らない。

 ただより憎まれ、より軽蔑されるだけ。こんなことをしている自分なんて。

 何をどこで間違えたのか。何をどうしたらよかったのか。

 慎二のやってきたことは決して許されないけれど、そうなってしまった彼の生い立ちや苦しみに、なにかどこかで救いがあってくれればよかったのにと思わずにはいられない。

 

最後に 

 というわけで1万字以上に渡ってもう言いたいことは言い切った感があるのですが、あとはもう最終章に期待するだけですね。

 またここからが凄いんだ……。

 1章の時点でこれはもの凄いものを見せられているという興奮があったのを覚えています。

 それを軽く越えてくる2章。ufoは常に進化し続けている。

 3章どうなってしまうんでしょうか……。

 舞台挨拶で監督は述べたようです。

 来春公開予定。退路は絶ちましたと。

 春。春と言いましたか。それを宣言しちゃいますか。

 それを言っちゃあもう退路はないですね。

 結末を知っていればわかるその意味。

 それではまた来春、桜が咲き誇ることを願って。

 ありがとうございました。

 

(そういえば、2週目舞台挨拶のチケット当選しました!まだ立川での極爆上映の1回しかみてませんが、2回目見てきたいと思います。何か面白い話が聞けるといいな)

 

その他細かいこと

 ・森でイリヤと士郎を抱えて助け出したアーチャーですが、士郎はぞんざいに放り投げたのに対し、イリヤは紳士的にそっと下ろしたところ、笑えるやら尊いやら最高でしたね。

・凛のことを姉さんと呼ぶ桜に対して、顔を赤らめ動揺しながらまんざらでもなさそうにする凛。本編全体の中で一番にやけてしょうがなかったシーンでした。

・慎二を殺害し、壊れた桜が聖杯の影にのまれるシーン。人形の触手くんがたくさん登場してましたね。あれは3章終盤で登場するものですが、その唐突感を和らげるために、早めに使っていったのかな。印象的なシーンに仕上がってますね。

・レアルタの指舐めや鉄心を取り入れたり欲張りな須藤監督。まさか終盤、桜との対決シーン、誤った選択での凛のあれもワンチャン……?

・図書室で喚き散らす慎二に対するアーチャーの表情。あそこの細かい心情が知りたい。もう見てられんって感じなんだけれど、アーチャーはどのくらい慎二のことを覚えているんだろう。そして何を思うんだろう。知りたい。

・なんか思うことがあったらまた追記していこうと思います。