ガッチャマンクラウズ インサイト 第10話 「意志を持たず流されるままに暴走する『畜群』に立ち向かう、『貴族』のガッチャマン」(13127文字)

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 ガッチャマンクラウズ10話「seeds」。

 seedは種子ですが、seedsでググッてみると広告用語としての意味もあるようです。

 消費者に潜在的なニーズを掘り起こしうる「技術」等の意。

 みんなを煽って別の空気へと誘導するリズムくんのことかなぁ。

 

 さて、じゃあ感想書いていこー。

 

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「うそつきー! どうしてそんな嘘つくの? お友達じゃないの!?」

 

 自分の言いたいことも言えない関係。もし考え方が違っても、相互に尊重しながら関係を維持できないものが、本当に友達と言えるものだろうか。

 仮にそういう関係でも維持される繋がりというのは、自他の境界がしっかりと区別されている――「個」がそれなりに確立されたうえでの繋がりだと思いますね。

 自己の存立基盤が、内面の深いところにあるような人間。僕的には、幼児期に形成されるような自己承認の感覚。これがないと、内的感覚や経験されているものを無視したまま(抑圧)外から色々もってきて、内的には全然繋がりのないものを継ぎ接ぎするような自己形成をすることになります。

 

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「いくら一つになることが快楽でも、そこに恐怖が伴えば、ストレスが生まれる」

 

「不満の種は既に育ちつつある。あとは、きっかえさえあればいい。ゲルサドラ、お前を引きずり下ろしてみせる。お前の大好きな空気でな」

 

 巷では空気に溶け込む快楽と共に、自己を抑圧しなければ生存そのもの脅かされるというストレスが蔓延しつつある。この状況を利用して、新たな空気を作ろうと画策するリズムくん。

 自分の目論見のために、梅ちゃんが子供の前で飲み込まれる悲惨な自体も利用する。こういうところリズムくんはリアリストで、言ってしまえば自分の正義のために手段を厭わない利己主義者ですよね。

 

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「ゆるじい……」

「ん、入って座れ」

 

 ゆるじいやっぱ生きてましたね。対話しなくちゃいけないので、生きてるだろうと思ってましたが。

 

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(感情に訴えかける映像に視聴率をとれると踏んで、流れを作ろうとするミリオ。白々しく全然共感的には見えない)

 

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 (変装するリズムくんwww)

 

「だって、一つになることは、この星のみんなの願いだから」

 

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「みなさん聞きましたか。政権に反対するものは、くうさまを使って飲み込む。こんなの独裁ですよ! 恐怖政治だ!」

 

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「くうさまで気に入らないやつ消してるんでしょ、超怖いんですけど」

 

 既に見てきたように、くうさまを生み出したのはゲルちゃんの能力ですが、その行動規範は「みんなの空気」、ただそれだけです。

 実際、リズムくんのインタビューに対してもゲルちゃんはそのように説明しているのですが、リズムくんもミリオもそれがゲルちゃん自身の意図であるかのうように印象操作する。

 

 「大事なのは、こちらの意見が大多数だと思い込ませることです」

 

 実際、ある情報、ある意見を発しているのは極一部の誰か(マスコミとか)かもしれない。しかし、それが「大多数」であるという印象され流布できれば、自分の頭で考えず、多数派に乗っかって自分の正当性を確保したい大衆によって、実際にその意見は多数派となる。

 何が事実なのか、何が自分にとって「正しい」なのかはどうでもよいわけです。これはこのあとカッツェが言及しますね。

 

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「君は猿じゃないから」

「おさるさん?」

「君のお父さんも猿じゃなかった。立派だった」

 

 やっぱりリズムくんも内発性をもって自ら思考し、行動する人が好きみたいですね。リズムくん、本当はるいるいのこと大好きですよね。でも、意見が噛み合わないとき、彼は自分の正義を手段を選ばず押し通すリアリストでもあります。少なくとも、彼には対話による尊重だとか、平和だとか、そういうのは「リアル」じゃない。ただ、これに対する批判の論法みたいなものはあって、結局「現実主義」を気取る人間は現状追認主義者」でしかないのでは、みたいな。

 あまり深入りしませんが、現状を理想に近づける努力についてはやはり語らなければいけないわけです。それをせずに、状況はこうだから、こうやってきたから、これを維持するために、こうするしなかい、みたいなことしか語らないのは、片手落ちだと言うわけです。そして、対話なしに、理想を語ろうとする人を、とにかく否定するに終始するわけです。お前は「現実」を知らないのだという台詞――「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ」を招来する。そうしてシニカルな笑いを浮かべて、そんな自分に満足するわけですね。で、実際に現実が、現実のままになるのを見届けると、ほれ、やっぱりみたことか、と独り言ちる。

 リズムくんがどうかは、わかりませんが。

 

 唐突ですが、防衛構想について何か言ってみると、実際のところ、僕は日本が軍備を持つこと、軍事的に協調できるのであれば、可能な誰かと協調することは必要だと思いますよ。実際どういう経緯で起こりうるかはわかりませんが、どこかの国が攻撃してこない保障は何もなにわけですから。

 しかし、危機を煽り、敵愾心を煽るだけに終始するような「リアリズム」のような何かには拒否感を抱きます。有事に対応しつつも、それを起こさないためのたくさんの戦略について語ってくれない(また耳を傾けない)のであれば、僕はそのような誰かを信頼できませんね。

 で、じゃあ実際の今の政治についてはどうなんだということなんですが、今のところ僕はあまり詳しくないので、はっきりとした意見を持っていないです。それはそれでよろしくないことなのですが、まあ限られた情報と印象で決断していくしかないですよね。すべてを知ることはできない以上、最後は直感しかない。民主主義的には、その人々の感覚的な身体的な部分を鈍らせない条件作りみたいなことが必要なんじゃないかとか考えたりします。

 

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「さてと、やっちゃいますか」

「やるってなんの話?」

「るいるいも行こうよ」

「一つになろうぜぇ」

(意味深)

 

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(またも電池と化した丈さん)

 

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 くうさまかなり脆い。ただ中の人とか居たら大丈夫なのかなぁとか思いますが。

 1期のMESSのときも結構派手に清音くんが攻撃したりしてましたけど、サルベージされてたんで大丈夫……なのか?

 

 というわけで、ゲルサドラへと向かっていったのは、色を失った人々(自ら考えることをやめた)の空気でした。僕はくうさまに対抗して赤クラウズなのかなとか思いましたが、もっとシンプルな答えでしたね。やっぱりリズムくん、ノート持ってないのかな。

 

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 (自らの意志に従って孤独に戦う「貴族」であったるいるいに、リズムくんからの着信が)

 

「累、あなたはこのままでいいんですか」

「いやだよ、もっとみんなと一緒にいたい……みんな、どこ行っちゃたんだ……っ」

 

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「俺は、これと似た雰囲気を前に感じたことがある。戦争だ」

「戦争……」

「国のために立ち上がれ。敵を殺せ。いつのまにか、そんな空気に支配されていた」

「みんなその空気に流されて、気づけば取り返しがつかなくなっていた。俺も、弟も」

「弟って、戦争でなくなった……」

「俺達は戦った。憎くもない相手と、無我夢中で」

「弟が死んで、ようやく我に返った。俺はいったい何をやってるんだ。誰と、なんのために戦ってるんだと」

 

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「この世で最も恐ろしいもの、それは、空気だ。それがいつ作られたのか、今となってはまるで覚えとらん。俺は少しづつ、だが確実に出来上がっていった。国のため、平和のため、生活を守るため、みんなで一つになって頑張ろう」

「私も、ゲルちゃんと一緒に……」

「そうだ、お前たちは、空気を作ってしまったんだ」

 

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 私たちはが日常の中で、生身の体温を感じられるような他者と相対するとき、その相手を嫌な奴だとおもうことがあっても、実際にその人間を殺して良いと思うことには抵抗を覚えるものです。当然、その感覚には個人差があるわけですが、それでも大抵の人は、他者を自分と同じ「人間」だと感じているわけで、彼の人生が身勝手な都合で閉じられることには強い抵抗を抱くし、憤りを感じるわけです。

 じゃあそれが、なぜ殺して良い、殺せる、となってしまうかというと、そういうふうにスイッチを切り替える「状況」があるわけです。そういった攻撃性に抑制がかからなくなってしまう様を観察した実験として、有名どころだとアイヒマン実験スタンフォード監獄実験とかありますね。

 ようは、人は何か「権威」や「組織」に自分の行為の道義的責任を肩代わりしてもらえる状況になると、非人道的な、非道徳的な行為であっても、抵抗を覚えながらもできてしまえるということなわけです。

 そしてそれは、「空気」でも同じだ、というわけですね。

 「空気」は人の内的「良心」を麻痺させてしまう。

 しかし、じゃあどうしようもないかというと、これも件の実験や、調査でわかっていることらしいですが、そういう「状況下」でも、自分の内的良心に従って、ようは「引き金を引けない」――「引かない」ことを選択する人間は一定数居る、ということです。

 僕はまだ読んでないので恐縮ですが、学部生時代に先生に勧められた本で次のようなものがありますので、紹介しときます。

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 

 

  ともかく、集団としての人間が、何故大規模な殺戮を繰り広げることができるかというと、まず人間「個々」には、そうした「内発性」、つまり「自分の良心に従って行動する」という度合い、そして「共感性」の発達度合いに個人差があるということ。そして、どうも大多数の人間は、権威や空気の中で、その能力の発動を抑制してしまう程度に、その能力が発達していないというわけなのですね。嫌な言い方すれば、結局、今の人類はその程度だということ。しかし、ここで思考停止してしまうと、現実追認主義者に堕することになります。

 つまり、「アップデート」を望まなくてはいけない。

 

 こうした人間の内発的良心や、その発達のメカニズム、そしてそれを戦争論と結びつけた著作に、アルノ・グリューンの「私は戦争のない世界を望む」があります。

 

私は戦争のない世界を望む

私は戦争のない世界を望む

 

 

  彼は、エーリッヒ・フロムや、8話でも引用したアリス・ミラーと同じ視座で人間性心理を分析し、語っている精神分析医です。例のごとくドイツ生まれのユダヤ系ですが、現在はスイス在住のようですね。

(もう一度読みたくなったので、「メモ」として記事をアップするかも)

 

 この流れで語っていくと、いくらでも論文のごとく書けてしまうのでちょいとアニメの文脈に話しを戻しますが、ともかく「空気」によって人々は内発性を失ってしまう。それはそのまま、内的良心を棄て去ることも意味する。その結末は、いくらでも凄惨なものとなりうるという示唆を表したものが、この会話だと思います。

 実際、日本の戦争の是非については――一応4年次のゼミで上山春平やら林房雄やらその他幾らか読まされたのですが、僕自身何かしっかりと述べられる程の知識や意見を持っているかは怪しいですね。

 ただそれでも、戦争というのは、何か、誰かが絶対に悪で始まり、結論付けられるようなものではないとは思ってます。そこには、それが起こるカニズムがある。

 だとすれば、建設的には何を思考しなければ行けないかというと、そのメカニズムはなんであって、それが起こらないためにはどうするのか、というようなことです。

 それについては、多少語れるかなと――語ってきた部分があるかなと思います。前回紹介した「合理的な神秘主義」もその路線です。

 このアニメで受け取るべきことというのも、そういう視点であるのではないでしょうか。

 その視座を現実の政治にどのように適用するかというのは、個々人の問題だと思いますね。いやまあ、具体的な批判対象を想定しているかは監督に聞いてみないとわかりませんが。

 

 ともかく、ゲルちゃんとつばさちゃんは「空気」を作ってしまった。

 流されやすい大衆に甘い夢を見させ、ただでさえ移ろいやすい内発性を完全に奪ってしまった

 ゲルサドラという宇宙人に出会ってしまったJKつばさちゃんには重すぎる責任追求だと思いますが、こうして彼女が傷つくことをゆるじいは心配していたのでした。

 

 ゆるじいは予感があるのでしょうね。つばさは自分がやっていることがなんなのかよくわからないまま、流れに身を任せて動き出してしまっている。もしその先に待っているのが、何か重大な惨事であるようなとき、その結果を引き受けて責任を果たすような覚悟が今のつばさにはない。そこで大きく傷つくのはつばさ自身なわけです。かわいいかわいい孫(ん?孫なのか?)がそのような道筋へと突き進んでいることがわかるわけですから、おじいちゃんの悲痛な心持ちは推して知るべし。

ガッチャマンクラウズ インサイト 06話 感想箇条書き - メモ帳

 

 こうやって失敗して学んでいくことも必要な過程なのかもしれませんが、結果が結果だけに重いですね。

 

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「悪いのはゲルちゃんじゃないっす!」

「は・じ・め・たーん! まーだそんなこと言っとんのー? 空気操る宇宙人なんて悪いに決まってますやーんwww 空気ってねぇ、とぉっても怖いんだよぉ、悪意なしでもへーきで人を傷つけられるんだよぉ! なんでかわかるぅ? それはねぇ、みんな正しいことをしてると思い込んでるからだよぉ、だから何してもいいのぉ! 相手が死ぬまでぶったたいても許されるのぉ!」

 

 もう上で散々書いたので、また繰り返す必要もないと思いますが、ちょっと別の視点を引用すると、この問題をそのまま書いた人がいます。ニーチェです。

 

 ニーチェはその道徳論において、大衆社会の道徳について語っているそうです。

 では彼の言う大衆社会の道徳とはどのようなものかというと、

 

「みんな正しいことをしてると思い込んでるからだよぉ、だから何してもいいのぉ! 相手が死ぬまでぶったたいても許されるのぉ!」

 

 これ。

 みんなが同じであることを望み、みんなと同じであろうとし、みんなと同じでないものを憎む。「同じ」の中身はどうでもよく、「同じ」であれば、それがそのまま「道徳」となる。これが「畜群道徳」。何も主体的判断ができず、ただ同じであろうとする「畜群」による道徳。

 そして、ただ同じであるということだけに快楽を見出す人間を「奴隷」と呼んだ。

 内在的な道徳律を持たず、気持ちいいからただ空気に溶けこむ「みんな」、ですね。

 それに対して、空気からまったく自由で、ただ自らにのみ従って、自ら為すべきことを為そうとする尊き人々を「貴族」と呼びました。折れる前のるいるいやリズムくんのイメージでしょうね。

 そして、それを極限まで突き詰め完成された存在が、かの「超人」であるわけです。

 ゆるじいはまあいいとして、JKのはじめちゃんはどうなってんだよこれ。

 

 蛇足ですが、特定の小集団内において自生する秩序(群生秩序)の暴力性、その詳細なメカニズムについてはこちらをどうぞ。

 

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 

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「愚かな猿共。お前たちはそうやって延々と敵を探し続け、周囲に流されるまま攻撃して、ただうさを晴らしていく。貴様ら猿を動かしているのは正義なんかではない。異なる人間を見下し、自分はみんなと同じだと安心したい、そんな醜い劣等感に過ぎない。もうわかっただろ爾乃美家累。そんな愚かな猿共に、力を与えてはならない。くうさまも、クラウズもな」

 

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「るい、もう一度聞きます、あなたはこのままでいいんですか」

「わからない、一人じゃ何も考えられないよ」

「考えること、それは一人だからこそできる。累、あなたの言葉です」

 

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「くうさまとクラウズは違います。くうさまを動かすのは無意識。クラウズを動かすのは意志です。あなたはその強い意志で、クラウズをベルク・カッツェから奪い、自らの力としました。それはあなたが何者にも流されず、一人で考えた結果です。るいあなたが動かないなら私が動きます、あなたの意志を継いでこの世界をアップデートしてみせます」

「X……。はは、X、君はいつの間にそんなことを考えるようになったんだい。僕はそんなプログラムを入れた覚えはない」

「プログラムではありません。あなたのそばにいて、考えた結果です」

「X」

「累。まだ間に合います。あなたの強い意志を見せて下さい。そして、あなたたちが猿ではないことを証明して下さい」

 

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「X、一緒に戦ってくれるかい。勿論です、累」

 

 リズムくんは、空気に迎合して多数派であることに安心したい心理の裏には、他者を見下すことで自己価値を確認したい強烈な劣等感があると看破します。

 さて、ではそのような劣等感の根源はどこにあるのでしょうか。先ほど紹介したアルノ・グリューンは次のように述べます。

 

「自分自身としてありのままに存在すること」を基礎に置くほんとうの強さは、子どもの頃に苦しい体験をした際、愛情に満ちた人に支えられることによって、成長させることができる。そのように共感し、思いやりのある態度でともに生きる人がいて、支えられることによってのみ、子どもは自分自身の苦しみを体験でき、その苦しみを「殺さなくてよい」という生き方ができるのである。この経験によって永続的な強さが生み出されるので、他者との競争による偽りの強さを繰り返し証明する必要がなくなる。このような内面的な強さは、その上、他者としっかり関係を保つために共感し合う能力の基礎である。そして、共感する能力こそが、私たちの内的強さをさらに強める。私たちはこのようにして、「他者に何かを与えることのできる人間」になること、つまり「利他主義」こそほんとうの力の源泉であると知るのである。

   ―― アルノ・グリューン「私は戦争のない世界を望む」

 

 アリス・ミラーの紹介でも述べましたが、人は自らの感覚を親に承認されないと、親の望む像に合わせて、自己形成をするという戦略をとるのです。エディプスコンプレックスというと、母親に対する近親相姦的欲望の断念ということがよく言われますが、これは象徴的な意味合いだと思います。何を言っているかというと、父的な象徴に自己の欲求や感覚を去勢され、所与の環境に適応するように自己形成するというのは、皆エディプス的な過程だという話。これによって人は社会適応できるかもしれないわけですが、同時にそれは人に抑圧を与えるわけです。それが同時に、人間の持つ劣等感の根源でもあり、攻撃性への発露へもつながりうる。しかし、この過程がどうしても必要なのか。抑圧(自分の感じたことを無視するように仕向けること)を与えずに、自己嫌悪を植え付けずに、生育することはできないのか。これは是非考えてみることだと思います。

 

 誤りを認めることは、どんな場合でも簡単ではありません。この能力もたぶん、ほかの多くの能力同様、子ども時代に獲得し、のちにそれらをさらに発達させることが可能なのではないかと思います。もしも、誤りに対して叱りつけられるのではなく、愛を込めて、自分のふるまいのどこが適当でなかったのか、あるいはそれだけなく危険でさえあったかを説明してもらえば、私たちは自然に後悔を感じ、人間というものは間違いを犯さずにはいられないという経験を、自分の内に組み込むことができるのです。ところが、親がごく小さな間違いでも赦さず、罰を下していると、私たちはそれによって、自分の失敗を打ち明けるのは危険だ、そのために良心の愛情が奪われてしまうから、という知恵を獲得することになります。このような経験は永続的な罪悪感と不安をもたらすことにもなりかねません。

   ―― アリス・ミラー「闇からの目覚め」

 

 子ども自身の瑞々しい意志や感情を挫くことなく、世界が何か、「自分の」知っていることを教えるということです。

 

 さて、遠回りしまして、るいるいとXの会話です。

  

 「考えること、それは一人だからこそできる。累、あなたの言葉です」

 

 ずっと作中を通して描かれてきたことです。例え誰かの意見に耳を傾けたとしても、自分の結論は自分で考えて出さなくてはいけない。空気に流さたり、誰かに代わりに答えを教えてもらうようなものではないけない。

 そのことをXに告げられて、自分の「意志」がなんだったか、るいるいは思い出す。

 リズムくんはくうさまとクラウズを同じだと言います。おそらくそれは正しいのでしょう。それを使う主体が何も考えないのであれば、空気を勝手に代弁して行動化するくうさまも、人が自ら操るクラウズも変わりはしない。しかし、そこで終わってはいけない。ならば、人が自らの意志によってクラウズを使うために、アップデートすることをこそ目指さなければいけないのです。

 その意志をプログラムに過ぎない存在であったはずのXが告げた。

 かつて自分が言っていたことを、その創造主の意図を超えて、創発という奇跡を成し遂げたXが、一つの主体として引き継ごうとしている。

 あなたを側で見てきて、そう考えた――と言う。

 その強固な意志でもって、ずっと孤独に戦ってきたるいるいですが、誰にも顧みられないわけではなかったのです。

 

 自らの意志を「感じ」とり、肯定し、それに従って生きるためには健全な生育と、「勇気」が必要です。

 強い「意志」をもっていはいますが、強烈な「自己否定感」を抱いて災禍をもたらした指導者は過去にたくさんいました。しかし、彼らは自分に存立基盤をもっているのではありません。例えば「神」や「自然」といった、より上位の存在に隷属する、マゾヒズム的心象がそれを可能にしています。(「自由からの逃走」を参照)。はたまた「思想」や「物語」に依拠することも。

 ですが、それらの「意志」は「勇気」によるものではありません。自己の基盤にある「弱さ」の超克のための、悲壮な努力に過ぎないのです。

 その抑圧され、意識されない「弱さ」を克服するためには、それを認めるしかない。それを認めた上で、ようやく本当に自らの声を聞くことができる。

 その過程は最終的には「他者」と共に行われるしかないのです。

 「空気」のようなものではなく。

 

 もし愛とは、ある特定の人物の本質に対する、情熱的な肯定であり、積極的な交渉を意味するのであれば、またもし愛とは当事者二人の独立と統一性とにもとづいた人間同士の結合を意味するのであれば、マゾヒズムと愛とは対立するものである。

   ――エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」

 

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「でも今は、行く流れでしょ」

「ふ、お前、また流されてるぞ」

 

 真面目っ子の清音くんは、ガッチャマンであるがゆえに思うとおりに行かない青春も送ってきたと思います。その反動か、2期では空気に溶け込んで美人女子大生はべらす姿をこれでもかと視聴者に見せつけてヘイトを稼いで来たわけですが、その自覚を通して、おそらく彼も「考えた」のでしょう。

 結局、自分は何を「為したい」のか。はっきりとしたことは言えませんが、お話の流れ的には、ここでも自らの意思でガッチャマンとして出動していくのだと思います。先週丈さんのところへ身体が動いてしまったように。

 

 それともう一つ、清音は前回のお話で、「空気」の中で幸せでいたいということが、そんなに悪いことなのかと言いました。空気の中に居たい。自分の意志なんてしんどい。たぶん、そう思うこと自体は、なんということはない、弱さを抱える人間にとって単にあたりまえの心象なのだと思います。だから、それを「悪いこと」として「自己嫌悪」してしまうと、再び同じ罠にはまることになる。そうではなくて、その弱さを、ただそれを事実として受け止めて、それでも、と自己に問いかけることが大切なのだと思います。弱さを克服するために、意志を持とうと努力するのではない。あのときの清音の吐露は、彼が自らの内界に恐れず向き合い、苦しいことも自分が行きたい方向へと進んでいくために受け入れていくための、重要な過程であったのかなという気がします。

 

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(くるくる回るはじめちゃん、かわいい)

 

「ううん、そうか、僕、いなくなればいいだね」

「ほんとうにそれでいいすっか? み ん な がぁ、じゃなくて、ゲルちゃんはどうしたいんすか?」

 

 ゲルサドラ自身の意志を尋ねるはじめちゃん。

 

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(ゆるじいがかっこ良すぎる)

 

「私、なんてことを……っ」

「お前は、この国の空気を吸い過ぎた。何も考えず、吸うことばかりに夢中になって、自分の力で吐き出すことを忘れていた。だがな、つばさ。そんなお前だからこそ、救えたものもあったんじゃないか」

「……え?」

 

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 「目の前に困っている人が居ると、考えるより先に、身体が動く。お前は子供の頃からそうだった、そんなお前をずっと、俺は誇りに思ってきた」

「ゆるじい」

「しかし今はじっくりと考えろ、お前に何ができるのか」

「あたしは――」

 

 つばさちゃんの根源にある内発性。苦しんでいる人、困っている人がいたら彼女は共感して、身体が動いてしまう。

 結局、そうしたルーツがゲルサドラという風と出会ったことで、すべての人の苦しみを救えるかもしれないという遠大で、子供じみた理想へと彼女を押し上げてしまったのでしょう。

 しかし、彼女の理想は敗れた。彼女は無知で無垢であったからこそ、その成長のためには、このような大きな失敗が必要であったのかもしれません。

 本当なら、ここまえ手痛い失敗をしたあと、人は自分に対する自信を完全に喪失してしまうことでしょう。

 しかし、そうはならなかった。Xがるいるいをずっと見てきて、彼の望みを理解していたように、ゆるじいもまたつばさという少女の内から湧き出る思いを見てきたのです。

 失敗はしたけれど、その想いの根源まで否定される必要はない。両者は共に、信頼できる他者によって自分が何者であったかを思い出すことができたのでした。

 

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「――僕は、僕は、僕はっ、消えたくない! ここに居たい! 消えたくない!」

「どうしてここに居たいんすか」

 

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(お腹を重そうに引きずるゲルサドラ)

 

「どうしてって、なんとなく、そう思ったから」

「それ、考えてないっす、もっと考えるっす!」

「それは――」

「考えるっす。げるちゃんだけの答えを。きっとあるはずっす!」

「僕だけの答え」

 

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「――それは、もう一度つばさちゃんに会いたいから」

「いいんすよ、それで」

 

 つばさちゃんの状況とリンクするように、場面はゲルサドラへと移ります。

 自らの意志を問いかけるゆるじいと――はじめちゃん。

 その問いかけに対して、「個」のないはずのゲルサドラは「消えたくない」と、漠然とした自己内の「感覚」に気付く。

 でもそれだけじゃだめだとはじめちゃんは言う。

 感覚の先にあるもの。彼の奥底に封じ込められた、彼自身の意志、望み。

 みんなの気持ちを吸い込み、それをカタチにし、それに従うことだけが、ゲルサドラという存在を快適にしてくれるはずだった。

 しかし、今や彼はその「空気」を吸い込むことができなくなり、重い足枷となっている。

 もう既に、彼は個のない宇宙人ゲルサドラではないのです。そんなゲルサドラにとって、みんなの気持ちは、重い。

 これまで吸い込んできた空気を吐き出したゲルサドラは、ここに至って、漸く自らのために、自らの内にある世界へと問いかける――考える。

 そして彼が発見した唯一のものが、つばさという女の子でした。

 つばさちゃんに会いたい――その想いを口にした彼は、社会に語りかけるために大人としてしつらえた姿を解いて、少年ゲルサドラの姿へと元に戻る。

 そしてその頭上には、かれの「心」が浮かんでいるのでした。

 

 この過程はなんというか、完全に精神分析ですよね。

 被治療者(ゲルサドラ)は、治療者(はじめちゃん)の返答に促されて、苦しみながらも自分の抑圧された「何か」について語る

 そしてそれを語るということ自体が「私」を明らかにしてくれる

 そして、治療者は被治療者の語った物語に対して承認を与える。

 ――いいんすよ、それで。

 

 ゲルちゃんの吹き出し様の白は何を表しているのでしょうね。

 単純に捉えるなら、「無垢さ」を表しているということでしょうか。

 でも「無垢」っていったいなんなのか僕はよくわかりません。

 まだ生まれたての自我で、これから自分の感情や意志を形成していく、ということなのか。

 普通の精神分析的発想みたいに、鏡像がどうとか、エディプスがどうとか言い出すわけにも行かなそうだし。

 黒との対比で考えるならば、ゲルサドラの言うところでは、心と口がばらばらということなので、それらが統合されていると受け取ることもできる。

 素直に自分の感情を知り、素直に表出するというような。

 まあ色々象徴的な意味が込められていそうです。

 

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 (すがやん生きてた)

 

「すがやん!」

「やあ、はじめちゃーん!」

 

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「(吐きだせ、自分の力で)」

「つばさ、もっと吐け」

「(吐き出せ。もっと、もっと――)」

「そうだ」

 

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「羽ばたけ、つばさ!」

 

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(遂に自らの意志で変身したつばさちゃん

 

「バード、ゴー!」

 

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(ちなみに自分を取り戻したるいるいはまたこの格好です。るいるいにとってはこれが自然)

 

 このシーンはどういう意味なのか、はっきりとはわかりませんが、それまで流されるままだったつばさちゃんが、自分の意志にちゃんと従って、ガッチャマンとして羽ばたいてゆく、その質的変化を象徴するための儀式みたいなもんかなと思います。

 「吐く」、という言葉の意味自体はもう難しくはないでしょうね。自分の感情や意志をちゃんと表現するということ。自分の頭で考えたうえで、自分の身体に従って動き出すということ。

 つばさちゃんが変身するためには、自分の内発的な意志で動き出すのでなくてはいけなかったのです。

 

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(こいつ偉そうやなぁwww)

 

「Gメンバーに告ぐ、これより我々はくうさまを、この空気を殲滅する!」

 

 ぱいぱいはほんと印象でなんでも決めるし、責任感はないし、もう最悪なんですが、子どもたちを大切にするあまり託児所開いたり、真っ先に駆けつけたり、主体的な行動も一応あるんですよね。

 もう彼はそこらへんだけやるのが天命で、リーダー辞めた方がいいんじゃぁ……。JJ(管理職の人)はたまに分り辛い命令下すだけだしなぁ。

 

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(まさかの変形。鳥の頭のようなフォルム)

 

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(MATSUKAZE。TSUBASA / RIDE MODE。スピード出しすぎぃ!)

 

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(この超スピードのままに変身解いて駆け出す瞬間がかっこいい……)

 

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(いやもう漸くって感じ。感慨深い……)

 

 さて、ガッチャマンが出揃い、本格的に動き出します。

 ここまでよくぞ溜めてきたという感じですね。

 正直それぞれどんなことを考えて、どのような決断をしたのかは、尺の都合かよく描写されていないのですが(そこらへんが2期の不満点でもある)、やはりヒーローが揃って動き出すという絵面は映えますね。

 彼らの活躍はまあ本編を見て下さい。

 

 しかし、くうさまを殲滅するために動き出したようですが、正義の暴力が悪を討ち倒して大団円、というわけには当然行きません。

 くうさまがどれだけ湧き出てくることができるのかはわかりませんが、敵がヒーローの守るべき人々――空気である以上、その人々自身に何か質的変化が生じて、少なくとも未来へ向けての希望が示されなくては、創作としては終われないように思います。

 

 ひとまず、いくつかの問題は解決した第10話でした。

 暴力的闘争で解決を図る手段は、幾つかの描写でその実効性が疑問視されているガッチャマンクラウズインサイトですが、あと2話、どのような結末を迎えるのか。

 そんな感じで、今週は終わります。

 

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 ガッチャ!