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ガッチャマンクラウズ インサイト 11話 感想 「すべての人間の痛みへの実感のみが争いを終わらし得る」(9793文字)

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 第11話「trade-off」。

 取引や交換を意味する言葉らしいですが、ニュアンス的には、何かを得るために何かを差し出すという感じのようですね。二つのものを両立できない。代償、二律背反。

 何を得るために、何を差し出すのでしょうか?

 

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「ガッチャなんで邪魔してんだよ!」

「ほんと空気読めねぇなぁ」

 

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「ふん、無駄な抵抗はよせ、ゲルサドラが死ぬまでこの空気は終わらない。飽きるまでやめないのが猿なんだ」

 

 祭りは勝利宣言するまで終わらない。

 勝利の中身は関係ない。ただ、「私」がそこに含まれる「みんな」が勝って、その「高揚感」の中で「自己という不安」が紛らわせられればそれでいい。

 しかし、この不安は、「自分が自分であること」を生きられたときにだけしか、克服できない性質のものです。つまり、次の「祭り」を永遠に探し続けなければいけない。終わりはないのです。

 

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「カッツェさん、空気ってどうやったら止まるんすかぁ?」

「そーんなん、みんなが満足したらとまるぅ~、決まってますやーん!」

「なぁるー。つばさちゃんどう思うっすか?」

「それってゲルちゃんを倒すってことですか? それじゃあ何の解決にもなりません!」

「どうしってすかぁ?」

「だって悪いのはゲルちゃんだけじゃなくて、うちらみんなもなんですから!」

「そうっすよねー」

 

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「カマトト、キター! いつまでそんなお花畑みたいなこと言うてますのぉ? 空気ちゃんのこと全然わかってへんなぁ。You、もゲルゲルと一緒になって、空気、作っとった、くっせにぃ!」

「だからあたしは、この空気をなんとかしたいんです! みんなにもその怖さに気づいてもらいたいんです!」

「ムリ!ムリムリ!はいムリゲー確定、みんな自分が正しいと思ってるから解決せぇへんし。みんな甘い甘い誰かの不幸が見たいだけやしぃ。そうやって永遠にぃ、バカなお祭り続けるぅのが、お前ら原始人ちゃうやんかぁ。ワラ、ワラワラ、じゃ、スィーユーネクストウィーク、次回ゲル血まみれの巻、バイバーイ」

 

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(この時点での「まさか」はゲルちゃん排除についてですかね)

 

「つばさちゃーん、この戦い方、なんか違うっすねぇ」

「先輩、まさか」

「仕方ないっす」

 

 永遠にバカなお祭り騒ぎを続けるのがお前ら原始人だと言うカッツェ。どれだけ文明を発展させ、何かより高い存在にでもなったかのようなフリをしても、その本質はまったく変わらない、アップデートなんてしていないというわけですね。

 しかし僕は、実は人間は原始人より退化しているんじゃないかと思わなくもないです。原始人以下のサルになってるんじゃないか。そのことを、次のようにフロムは説明しています。

 

 それに、近代人は、教養ある人たちも含めて、宗教的問題や哲学的問題さらに政治的問題についてすらも、あまり考えてはいないのである。たいていの場合、政治的、宗教的な書物や発言者たちが提供してくれる山ほどの決まり文句のなかから、あれやこれやを採用するのだが、しかし、自分自身が能動的に洞察を巡らせながら思考した結果として、結論が出てくるようなことはまずないのである。自分自身の性格や社会階級にもっともアピールするような決まり文句を、選び出してくるに過ぎないのだ。

 原始人は完全に異なった状況に置かれている。原始人は、近代的な意味での教育を、ほとんどまったく受けていない。観察し、そこから学習するということを、原始人はいやおうなしに強いられている。天気や動物の行動や他の人間の行動を観察しなければならない。原始人の生活・生命は、特定の技能を獲得するかどうかにかかっている。そして、その獲得は、自分自身の行動と行為によってなされるのであり、「二十のクイック・レッスン」を受ければそれですむというものではない。

 原始人の人生は絶え間ない学習のプロセスなのである。

 

   エーリッヒ・フロム「よりよく生きるということ(The art of being)」

 

  つまりこれは「内発性」です。自分の身体で感じて、自分の頭で考えて、何かを知り、何かを行為し、自分の全生活を作り上げていく。原始人はむしろ現代人より、人間として「生きていた」のではないかということですね。

 というわけでまたお話が逸れましたが――そのように自ら考えず、何も知ることがないが故に、誰かに依存し、すべての責任をその誰かに押しつける「みんな」が悪かったのだとつばさちゃんは言います。

 その「誰か」を消し去ったとしても、本質的には何も解決しないわけですね。

 この問題はあまりに根が深い――そんな言葉では言い表せない程の困難さを持つ課題なわけですが、その解決の糸口はどこにあるのでしょうか。

 そしてはじめちゃんは何を考えているのか。

 

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(ゲルサドラが逃亡したという情報がどこからかもたらされる)

 

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(突如スタジオに現れるガッチャマンと元首相)

 

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(本物の前でたじたじのパチもん)

 

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(突然のスマホ投票。問題の解決をガッチャマンに一任するか否か)

 

「僕らガッチャマンが、ゲルサドラをなんとかしますかぁ?」

 

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ガッチャマンにおまかせ)

 

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 「じゃあ僕らガッチャマンが、責任をもってなんとかするっす。いいっすね?

 

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「ふん。そうきたか。しかし結局血を見ることに変わりはない」

 

 ゲルサドラ排斥の空気の中、それに抗っていたガッチャマンが突然スタジオに現れ、自分たちがゲルサドラをなんとかすると言い出す。

 突然の転向にも関わらず、その意図や意味を考えることなく、再びみんなは問題の解決をガッチャマンに任せることを選択する。

 そんなみんなに対し、どこか確認するように、責任をもって問題解決にあたると返答するはじめちゃん。

 その中継を見ていたリズムくんは結局血をみることに変わりはないと言います。

 リズムくんがここで証明しようとしていることは、結局サルたちが内発性をもってものごとを考えることなんてありえず、ただ常に新しい空気を作り出していくだけなのだということですね。

 ゲルサドラ排除をくうさまが行おうと、ガッチャマンが代わりにやろうと、サル共の空気が暴力を正当化し、誰かを傷つけることには変わりないというわけです。

 

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「やっぱ最後はガッチャマンっすよねぇ」

 

「また変わったんだ、空気が」

 

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「あ、丈さーん。フェニックスだいぶ決めちゃってくださーい!」

「「「「フェニックスダーイブ! フェニックスダーイブ!」」」」

「ほんと勝手だなお前ら」

 

 フェニックスダーイブ!

 

 サルになるって楽しいんだ……。ごめんね、丈さん……。

 

 というわけで、一瞬にして空気が変わります。

 先程まで猛叩きしていたガッチャマンを、舌の根も乾かぬうちにに大声援で戦いの地へと送り出す。

 ものすごく戯画化して描かれているわけですけれど、そう思えるのはむしろ現実の私たちに自覚がないことの証左かもしれないので、これはとっても怖いわけです。

 

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「みんなを救うにはこれしかないっす」

 

「ゲルちゃん、殺すっす!」

 

 ゲルちゃんを殺すことで、大衆は満足し、さしあたりこの空気は止められる。

 いつもの調子で衝撃的な台詞を口にするはじめちゃん。ガッチャマンは本当にゲルサドラを殺してしまうのか?

 

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立川市に突如現れたゲルサドラ。まるでUMAか何かの撮影に成功したかのようですね!)

 

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「凄いねこりゃ!」

「かっこよすぎぃ!」

 

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(我らがヒーロー)

 

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 街中に突如現れたゲルサドラと戦闘を開始するガッチャマンたち。

 ゲルサドラの必死に抵抗に苦戦しながらも、次々に畳み掛け青空国会前へと追い詰めていく。

 

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(満身創痍のゲルサドラに対して容赦なく追い打ちをかけるガッチャマンたち)

 

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「やべえぞガッチャ……」

「容赦ないな……」

「降参しろよサドラ……」

 

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(みんなで創る青空国会が、みんなが創った正義の炎で焼きつくされる)

 

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「おいおい……」

「やり過ぎだろ……」

「もう、いいんじゃない……」

 

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「まさか、あいつら」

 

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「ちょっと、これは……」

「いくらなんでも、やり過ぎでしょうがぁ……」

 

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「覚悟しろ、醜き化け物が、今こそ永遠の眠りにつくがいい! 喰らえ、この一閃っ――!」

「やめて下さい! もう十分ですっ!」

 

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(最後の一撃を放とうとする清音と、もう十分だと庇うつばさちゃん。その二人に対し、何か意志を伝えるかのように起き上がって前を見据えるゲルサドラ)

 

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(ゲルサドラの姿に対して、何か敬意を表すようにガッチャポーズをとる面々)

 

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「無限刀・嵐! 」

 

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(ゲルサドラの最後を見届けると、くうさまが次々と破裂していく)

 

 ゲルサドラを追い詰めたガッチャマンは、満身創痍で既に戦える状態ではない彼に対して、苛烈な追い打ちを仕掛けていきます。ようは「私刑(リンチ)」。

 その凄惨な映像に対して、みんなは息を呑む。それまであった楽しい楽しい祭りの熱狂は冷めて、ほのかな疑念がみんなの内に生まれます。

 

 ――これは本当に正しいことなのか?

 

 それまで、自分たちが何を求め、何に賛同し、どんな結果を得ようとしていたのか。その何もかもを考えることをせず、何の実感もないままに、推し進めてきた。

 もし彼らにその「空気」の中身に対する自覚が芽生えるとすれば、それはいったい何がもたらされたときなのでしょうか。

 僕は、以前に何度か言ってきたもの――「身体性」だと思います。

 空気に溶け込むというのは、言わば自己を放棄することです。

 それはつまり、実際には何も「経験」しない、ということ。

 先ほど原始人の話をしましたが、現代人は多くの場合において、何事かたくさんのことを知っている顔をしながら、その実、何も知らないのです。

 テレビから流れてくる情報、ネットで得た諸々の知識、本で読んだあれやこれや、それを単なる「知識」だけでなく、自分の身体を通した経験と結びつけて、自己の内で「構造化」し「身体化」する。そういう「自発的な思考」を通じて、ようやく人は本当の意味で何事か知ることができるのではないでしょうか。

 それはもっと噛み砕いて言ってしまえば「実感」というやつです。

 日本語にはとても素晴らしい言葉があります。――腑に落ちる、というやつです。

 空気の中に居て、自己を失っている人間たちは、自分たちのとりまく現実を何も知ることはできない。ではそんな人間たちに実感を取り戻させてやるためにはどうしたらいいのかというと、身体性に呼びかけるような「事実を突き付ける」ということではないでしょうか。

 ゲルサドラをやっつけろと何も考えずに熱狂していたみんなに、ガッチャマンはそれがどういうことなのか突きつけたのです。
 その事実は、人々に一抹の身体性を呼び覚まさせました。その実感から出てくる、「これはひどいことなのではないか」「間違っているのではないか」という素朴な気持ちは、おそらく真に「内発的」なものなのです。

 僕は吹き出し様についてスペクトル説ということを言っておりました。で、スペクトルの一方の端である「赤」というのは完全に内発性を失い、洞察を閉じ、同調傾向の極限まで高まった状態だというようなことも。

 だから、ガッチャマンによって内発性を呼び覚まされた人々の背後で、赤い吹き出し様から生み出されるくうさまが砕け散るというのは、当然なのでしょうね。

 空気が引いたというより、人々の内発性が呼び覚まされたからくうさまは消えた。

 

 さて、また少しどこからか、誰かのお話を持ってきてみたいと思います。

 僕がこのエピソードを通じて思い出した人――小田実、という人です。

 彼の著作「『難死』の思想」の中にある「平和の倫理と論理」という章が、この問題とほぼ同じことに言及しています。

 

「難死」の思想 (岩波現代文庫)

「難死」の思想 (岩波現代文庫)

 

 

  彼の主張の前提を、僕の理解を通してまとめるとこうです――「公の状況に結びついて、戦いと死に意味を見出すということは、現実に戦争を体験し、目の前でただ殺戮されていく多くの市井の人間を目にしてきた者からすればお笑い種である。彼らの死は美しい『散華』でもなんでもない、ただ惨たらしく殺されていった、何の意味のなく死ぬしかなかった『難死』である」と。その事実を歪めて何か慰みの言い訳をするのであれば、また公のために人々が死へと駆りだされていくことになるのだ、というわけです。

 

 さて、しかしこれだけだと、どう今回のお話に結びついてくるのかわかりづらいですね。

 とりあえず、こうした自覚から導き出されてくるものは何かということを言うと、それは「被害者意識」というものです。

 戦後日本で多く共有された認識。――自分たちは騙されていたのであると。

 もうおわかりだと思います。天皇を崇拝し、お国のために頑張った自分たちは、国家に騙された被害者だというわけですね。

 今回のエピソードがゆるじいのお話にも結びつきました。

 ゆるじいは自分たちは騙されていたなどとは言いませんでした。自分たちは空気に流された、つまり――自分の頭で考え実感し決断したのではなかった、と言っているのです。

(これは、ガッチャマンに問題の解決を一任し、その結果に対して、おまらやり過ぎだ、ここまでやれとは言ってねえよ、と責任放棄するみんなの様子と同じ構造です)

 空気に、国家に騙された被害者だという認識しかもたず、自分の頭で考えない日本人に対する批判というのは、まあそれはそれで意味のあることかと思います。

 しかし、問題はここで終わりません。何が問われなければいけないのかというと、では、その被害者意識から抜けだして、内発性を高めるためには何が必要なのかということなわけです。

 つまり、そうした凄惨な結末へ至る流れを押し留めるもの――「加害者としての実感」が必要なのだと小田実は言うのです。

(今回ガッチャマンたちが示したもの)

 これは別に、日本の戦争責任云々などというお話ではありません。人が人を傷つけ害するということ――「普遍的な悪の原理」への自覚が必要だ、ということです。

 前回の記事で、ある「状況」において、人はその内発的良心を閉じてしまえるということを言いました。戦争状況とはまさに、そうした欠如のループの中で凄惨な被害が拡大していくような現実です。

 もし、その中でも「自覚」を閉ざさず、「引き金をひかない」ことを両者ができるとすれば、その「悪」の実感ーー「普遍的な倫理」の実感を人々が持てる場合に限るのです。

 そしてそれを可能とする希望は、人々が自分たちの「加害的側面」を自覚すること、「加害者になりうること」を自覚すること、そしてそれを突き付けることにしかないのだと、小田実は考えるわけです。

 引き金を引くのは国家でも空気でもない。それは、何も考えない、何も実感をもたないあなた自身なのだと。

 それはまさに、このエピソードを通じて描かれたことだと、僕には見えました。

 

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(くうさまが消滅して、とりこまれた人が戻ってきました)

 

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「でもちょっとやり過ぎだったねぇ」

「うるさい! うちらに任せたのはあんたたちでしょ!」

 

 電池!圧倒的電池!

 と思ったら、丈さんだけでなくみんながはじめちゃんの命を繋いでいました。

 ゲルサドラとの戦闘中、姿を消していたはじめちゃんが、何故かベッドで横たわっている。しかも、満身創痍っぽい。

 

 巷ではゲルサドラに対する空気の熱狂は鳴りを潜め、関心自体が潮を引いていく。

 自分たちが「おまかせ」したにも関わらず、あの凄惨なリンチという結果を自分たちの本位ではなかった、やりすぎたお前らドン引きですわ、と責任を押しつける。

 結果への自覚はない――というか、これは自分が何かを決め、何か現実を導き、そしてそれに対する責任を負うことを「拒否」しているわけです。

 

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「これはあたしたちみんなの問題だから、みんなに聞いてみるべきだと」

 

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「それじゃあだめっす。これはチャンスっすから」

「チャンス、何のだ?」

「僕らが、僕らのことを知るチャンスっすよ」

「先輩は言いました、今回の敵はゲルサドラではない、あたしたちみんなだと。そして、あたしたちが作り出してしまった空気だと」

「これは今までで一番手強い敵っす。倒せないかもしれないっすけどぉ、気づかせることはできるっす」

 

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「一瞬で流れを変えてしまう空気という曖昧なものに、いつまでも流されていてはだめだ。だから今空気を止める。そのためにゲルサドラを殺すんだと」

「ゲルちゃんが死ねばみんな満足するっす。いや、満足を超えてその話題すら口にしなくなるっす。そうしないと止まんないすよ、この空気は」

「そんなの嫌です!」

「大丈夫っすよつばさちゃん、ここにいるみんなの力を合わせれば」

 

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「いえ、先輩はいたんです、あの戦闘のど真ん中に」

 

 僕らは僕らのことを知らない。自分が何も考えず、何も知ることをできず、自己すらも放棄して――ただ空気に流されているだけのサルであることを。

 ゲルサドラを地球から帰せば、とりあえずこの空気は忘れ去られていくのかもしれない。しかし、それはまた次の空気へと移り変わっていくだけ。

 人々は気づかなくてはいけない。それで空気という原理そのものを打ち倒すことはできないかもしれないけれど、自分たちは人としてちゃんと生きることをしていないという気付きは、もしかしたらみんながアップデートしていくためのきっかけになるかもしれない。

 

 というわけで、はじめちゃんはみんなに気づきを与えるために――何も考えずに空気に流されるという結果がどのようなものかという事実を突き付けるために、ゲルちゃん殺す!と笑顔で言うのでした。

 しかし、つばさちゃんは嫌だと言います。それに対してはじめちゃんは大丈夫だという。

 ここに居るみんなの力を合わせれば。

 はい、そうです、ゲルサドラはゲルサドラじゃなかった!

 ここに居るみんな――つまり、カッツェを合わせたみんなということでしょう。

 あのゲルサドラは、はじめちゃんが幸災楽禍のノートの力でゲルサドラの映し身となっていた姿であったようです。

 空気に流され内発性を失ったみんなの身体性に呼びかけるべく、文字通り自分の身体を切り刻んで、すり潰して、燃やして――身体性のなんたるかを示したのでした。

 

 ところで、現代世界において大惨事の原因は何かというと「多様性が消失する」ということなわけです。

 なぜ多様性が消失するかというと、人間の自発性が失われるからです。

 人間というのはそれぞれ違っています。利害関係も違う。そもそも多種多様に対立するのが人間です。きらきらばちばちぃっとしているのが、「生きている人間同士」の社会です。

 しかし、自分を棄て去り、自己を主張しなくなると(そもそも自己の主張だとか利益だとかわからなくなると)、それを誰かに教えてもらうことになります。

 そうやって人々は一部の人間にいいように操られて大きな流れを作ってしまいます。(操る人間がいなくても空気のままに暴走するかもしれない)

 そうやって大惨事になってようやく止まって、と、繰り返すわけですね。

 ある種の倫理的原則を含んだものとして定式化された民主主義理論では、政治参加する主体のアップデートを含意していました。それを政治学者のC.B.マクファーソン「発展的民主主義」と呼びました。

 

自由民主主義は生き残れるか (1978年) (岩波新書)

自由民主主義は生き残れるか (1978年) (岩波新書)

 

 

 しかし、それは巨大化する資本主義構造の不安定化の中で一時捨て去られ、その後「主権者は政治を決めてくれるエリートや専門家を、商品を選ぶように選択するだけ」という「均衡的民主主義」に移行したと考えられています。

 しかし、これもまた主権者が自分の利益がなんであるかわかる、そして政党の中にそれを反映するものがあるという前提があるわけですね。こう言ってみると、この前提がもう現代社会において崩壊していることがわかると思います。

 結局、人々は自分で考えなくちゃいけないのです。そしてちゃんと様々なカタチでの政治参加を通して政治的に成熟(アップデート)しないのであれば、社会はよくならないわけです。政治参加が自分の利益に対する自覚を与えるし、その圧力が主権者の代表である政治家を作るわけです。政治家のために主権者が存在しているのでは決してない。

 こうして人々の積極的な政治参加を含意するモデルを「参加民主主義」と呼びました。現代社会はその可能性を模索する過渡期のまっただ中です。

 

 話がまた逸れました。はじめちゃんがその身体をもって人々の内発性を呼び起こすように働きかけたという話でした。

 この作品ではるいるいがナイフでぶっさされながらも助けを拒んだりと、自分の内発的な意志、決断に対してのストイックな姿勢が描かれますよね。

 だからこれはガンディー的だと僕は思うわけなんですけれど。

 一つの究極的な人間の在り方だなぁと思います。

 僕はあんまりこれを「自己犠牲精神」だとか矮小化した言葉で理解しようとは思わないですね。やはり「意志」の問題だと思います。はじめちゃん自身が、自らの内発性に基いて自発的に考えて、その結果として望んだ何か対する、自分の「意志」。

 ともかく、その超然性が逆に共感のしづらさでもあり、惹きつけられる魅力でもあるんですけれどね。ほんま面白いキャラクターだと思います。

 はじめちゃんが主体的に動いて物語にがっつり絡んでいくと僕は凄く面白く感じます。

 

 

 というわけで、11話感想でした。

 空気に流されるサルたちのアップデート、そんな人類普遍の解決困難な課題に対して、ある意味人々の内発性を奪いうるヒーローたちがどう立ち向かっていくのか。

 正直何の予想も立たずに居たのですが、このどうしようもない難問にそう来たかって感じです。

 でもヒーローがその身を賭けて人心に何かを生み出そうと頑張るってのも、一つの王道ですよね。

 そういう熱さがあったように思います。

 

 最終回を前に最大の山を超えた感がありますが、次週何を描くのでしょうか。

 まだまだ人々が本質的に変わったわけではありません。

 その気付きにしたって、微かな――自覚とも言えない程度のものです。

 明確な「ラスボス」を倒して物語を負えられない、1期より困難な題材へ挑んでいるわけですから大変です。

 今週も予想のつかない切り口で楽しませてもらいましたので、期待はありますね。

 それではまた。

 

※蛇足

 

 民主主義のモデルという話しをしましたが、マクファーソンの理解をまとめると、

 

  防御的民主主義

 → 発展的民主主義

 → 均衡的民主主義

 → 参加民主主義

 

 となります。

 

 で、【防御的民主主義】については言及しなかったので紹介しますが、これは何かというと、「政府が自分の利益のために被支配者を搾取することを防ぐためには、定期的な選挙で統治者を入れ替える権力を人民に与えるしかない」という考えから導きだされたものです。

 これが、(マクファーソンによれば)資本主義的な階級社会を前提として(それを変えられないものとして)、ベンサムやジェームス・ミルによって初めて定式化された普通選挙を含む自由民主主義理論であったということなわけですね。

 で、その後、民主主義という方法自体に対するヒューマニズム的な倫理・道徳観念を盛り込む形で、発展的民主主義が定式化され、それに対する揺り戻しとして、均衡的民主主義が定式化され(現在優勢な多元的政党政治のイメージ)、またその不完全さや矛盾を突く形で参加民主主義が議論されているという流れです。

 民主主義のモデルや、歴史的経緯、誰がどんなことを言ったか、そして今議論されていることの出発点は何なのか、といったことに関心がありましたら、とっても整理された本なのでおすすめします。絶版で中古を探さなくてはならないですが。(大学図書館とかだったら置いてるかな?)