ガッチャマンクラウズ感想 「知りもしない誰かの悪意に付き合う暇があったら、目の前の大切な人へと向きあおう」(1407文字)
ニコ動とかでNG機能を僕はよく使うタイプなのですが、ふと9話のシーンを思い出しました。
(自分へのヘイトを読み上げるはじめちゃん。耳を塞ぐうつつちゃんがかわいい)
「平気なの、こんなことされて」
「平気っすよ、だって」
「嫌なら電源切ればいい」
「そうっす! じゃあ、いくっすよー」
「「せえの!」」
ガッチャマンクラウズでは、「対話」「尊重」「相互理解」「主体の変化(アップデート)」みたいなものは重要なテーマだと思うですが、自分にとって不快なノイズをフィルタリングするのって、それに反するんじゃないの? ってなことを反射的に思ったりしますよね(え、別に?)。
でも、「選択」というのを、僕は重要だと思ってます。今の時代、情報というのはもう無尽蔵に、みさかいなく、頼んでなくても、向こうから勝手にやってきては通りすぎて行く。そのような中で、ゆっくり深く考える(insight)ためには、自分がどんな情報に向き合い、コミュニケートするかというのは、取捨選択しなくてはいけません。
個人的な考えを言わせてもらえば、僕は人間が良く生きるためには自己肯定感が何より大切だと思っているので、「個人の意見を個人の意見として述べる」のでなく、相手を否定したり、説得したり、コントロールする意図でももって為される発言等には、耳を傾けなくていいじゃないかと思ってます。
「いつかカッツェが言ってた、真犯人は醜い心。それがどんどん溢れて、互いに殺し合ってる。だから、この事件は永遠に終わらない」
「醜いこころかー……。先輩、僕死んだら、どう思うっすか?」
「え、そ、そんなの、悲しいに決まってるだろ!」
「そうすか」
「私もうつうつする」
「そっか、ありがと」
「わたしもよーん」
「まじすか!」
「当然じゃない。はじめちゃんは、私たちGメンバーの太陽なんだから」
自分に対する悪意をフィルタリングしたあとに、上記のような会話がされています。
「醜い心」というのに対するアンチテーゼの確認の意味でこういう会話がされているのかもしれませんけれど、僕の趣味で解釈すると、「自分のことを何も知らない、知ろうともしない誰かの悪意になんか耳を傾けるな。目の前(in sight)に居て、自分のことを大切に思ってくれる誰かの方へちゃんと向き合っていろ」なんて。
今この時、この場でない誰かのことを気にして、今この時、この場で、自分が自分の身体で感じていることから離れてしまうというのが多すぎるんじゃないかと思います。そうしていると、自分にとって必要な場所とかわからなくなる。居たくないのにその場に居続けたりする。自分が感じていることもわからなくなっているからです。「身体性」というのは重要なテーマだと思います。
はい、ただそれだけです。勝手にそんなふうに解釈しているので、このシーンが好きといいたいだけでした。
はじめちゃんは悪意の塊みたいなカッツェ個人と向き合うことを選択していますが、このシーンでフィルタリングした「匿名で不特定多数の誰か」とはまったく異なります。徹底して異質な個人と分かり合おうと努力することは、それを介して人間という総体に接近する重要なアプローチなのです。ただ、それをするためには、最低限相手に飲み込まれないための強さ(自己肯定感)が前提ですが。
「私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る」
エーリッヒ・フロム「愛するということ」