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エーリッヒ・フロム「人生と愛」を読んだ。だからメモ書いてく。 ―― ①

エーリッヒ・フロムの「人生と愛」を読んだので、その流れのままに色々メモ的に書く。

 

人生と愛

人生と愛

 

 

・「人は自分の内の空虚を追い払うために物を詰め込む。これが受動的な人間なのである。彼は自分がちっぽけだという不安を持ち、その不安を忘れようとして消費し、消費人(ホモ・コンスーメンス)」となる。p16

 

 「嗜癖」ですね。酒を飲んだり、煙草吸ったり、何か大して食べたいわけでもないのに口に放り込んだり。

 自分が四六時中やってるそれらの背後には、実は自己の空虚さやちっぽけさの感覚からの逃避がある。

 

・「ここにおいてマルクスが愛について、それを一つの能動として語っているのがわかるだろう。実際、近代の人間は、愛によって何かを生み出すということを考えない。たいていはただ愛されることばかりに心を砕き、みずから愛しうるということ、すなわち愛によって、相手の中に愛を生み出し、それによって何か新しいもの、今までなかったものを世界にもたらすということに心を砕こうとしない。」p20

 

 愛は「新しく何かを生み出すもの」という指摘は何か霊感を与える。

 誰かをスキというとき、そこにはその人によって自分が幸福にしてもらえる予感がある場合が多いように思う。

 他者に対する関係において、ほとんどの人が期待しているものは、ほぼこれでしょう。

 しかし、愛を実践として捉えることができるならば、その対象や、その人から得られるものは関係がなくなる。

 その人が自分に何を与えてくれるかというところから人間関係に入ると、いっつも何か諦めや失望を抱くことになるでしょう。

 でもそれだけが他者との関係性ではないということに経験的に気付くならば、きっと人間関係というのはもっと豊かで寛容なものになるのでしょうね。

 

 例えば、受動的な他者との関係の様式には、相手をコントロールしようという発想がある。つまり、相手から何かを引き出し手に入れるために色々な振る舞いをするということ。

 そこには、結局相手自身に対する関心とかはなくて、仮に相手を知ろうとしていたとしても、その関心は自己にしかないわけです。

 カントじゃないですが、相手を自己の目的として利用するような関係ですかね。

 

 それじゃあ能動的な愛とは具体的には何かという話なんですが、それはまた別の機会に考えようと思います。

 

 ・情熱的に何かを追い求めている人がいる。彼はとても能動的に見えるが、実は刺激という外力に対する反作用として、型にはまった活動をしているに過ぎない。ここには、何ら「個性的」なものはなく、また何も「新しいもの」が生み出されることはないので、なんとも退屈なものである。どころかそれは、「苦しみ(Leiden)を生み出す(schafft)情熱(Leidenschafft)」でしかないのである。

 

「私たちの多くの活動は、退屈を意識しないようにする試みである。しかし、忘れてはならないことは、くだらない映画を見るなどして退屈を追い払った時に、しばしば感じるいやな気分である。それは、実は死ぬほどの退屈だったのだ、自分の時間を有効に使ったのではなくむだに費やしたのだ、と気付く時に襲われる二日酔いのような気分なのである。」p28

 

 漫然とアニメ見たり、ゲームしたりしたあとのアレ。

 充実を感じるときときもあれば、仄かな焦燥が募っていくときもありますよね。

 その違いを見つめることは、自己を知るうえで一つのチャンスだと思います。

 

・「人間は、自己を表現している時、内在する力を発揮しているときのみ、自分自身なのだと私は思っている。それに反して人間が〈ある〉ことをやめて〈もつ〉ようになり、使うようになれば、人間は堕落し、物になり、彼の生活は無意味になる。生活は苦痛になる。真の喜びは真の能動にある。」p32

 

 人は能動的に活動し、自身の能力を発揮しているとき自分自身であれるのであって、自分が持っているものであるとか、何か外部から自分に与えられた属性によって、自分自身というものを確かめられるのではない。

 〈ある〉ことをやめて、〈もつ〉ことを増やせば増やすほどに、その自分が集めたものに依存することになる。それは「自己」というものを強固にしているようで、実は自分自身からより「疎外」されていっているのである。

 

 逆に言えば、〈ある〉ことができなければできない程に、その自己疎外の苦しみから逃れるため、必死にモノや評価をかき集めて自己を補強しようとする。しかし、その受動的活動は「退屈」と不可分であるので、それを紛らわせるために「刺激」を求めて「消費」したりする。

 「所有」と「消費」という現代人の基本的な活動様式の正体がこれ。

 そのようにして空虚な自分から必死に逃れようと何かに依存していく。

 

・「さてところが、この近代社会は、それまではそれほどでもなかったあるものを開発した。品物を生産するだけでなく、欲求をも生産するようになったのである。私は何を言おうとしているのか? 人間はいつでも欲求を持っていた。食べたい、飲みたい、きれいな家に住みたい、などと思って来た。しかし、今日身の回りを見れば、広告と包装のもつ意味が大きくなりつつあるのに気付くだろう。人間の願望は、本人から発していることはほとんどなく、外部から呼び覚まされ、あやつられているのだ。不自由なく暮らしている者でも、ほしくなりそうな品物がずらりと並んでいるのを目の前に見れば、自分が貧乏だと感じてしまう。」p37

 

 「この経済体制の中の大多数の人間は、必要とするよりずっと多くを持っているのに、商品の速度と量についていけないので、自分が貧乏だと思っている。かくして、受動性が強まり、また、嫉妬や、貪欲が強まり、ついには内的な弱さの感覚、無力感、劣等感が増大する。人間は、自分が持つものとしてのみ生き、あるものとして生きないのである。」p38

 

 これも重要な指摘だと思う。

 本当にそれを手に入れて、いったちどれほど満たされるかわからないのに、それを手に入れなくちゃいけないという強迫的な気持ち、焦燥を現代人の多くは慢性的に抱えているように思う。

 それも結局、自己に対する空虚さとかちっぽけさとか、そして退屈から生まれるのでしょう。

 自己が充実していれば、欲望を煽られて、逐一反応する必要なんてないわけです。

 退屈だから、自分という存在が弱いものとして感じられているから、紛らわせ、補強する必要がある。

 モノは、それを叶えてくれるように見える。でも、いつも何かを手に入れているのに、ちっとも満たされないのです。

 だからこの経済社会は成り立っている。何かを期待させて、一時ごまかしを与えてくれるけれど――そう、その通り、ごまかしなので終わりは来ない。

 

 延々と、テレビのコマーシャルやネットの広告、そしてあなたへのおすすめ商品と踊り続けて終わる人生が待っているのでした!

 

・「権威主義的良心とは反対に、ヒューマニズム的良心があるということは、やはり言っておきたい。この良心は人間自身に根ざしていて、彼にとって、また、彼の発展や成長にとって、よいこと、役に立つことを知らせてくれるのである。《中略》そして人間がこの自分の声を聞く(horcht)ならば、外的な権威に服従する(gehorcht)ことはないのである。彼自身の声は、彼という有機体の中に肉体的、精神的に潜在する目標に彼が向かうようにする。そして、この道は正しい、その道はまちがっている、と教えるのである。」p42

 

 何故人は誰かに指し示してもらった道を自分が選択したと思って何の疑いもなく進んでしまうのか。

 それは結局、自分が自分として生きるということをやっていないからでしょう。

 やっていないというか、そのために必要な経験というものをさせないような社会なのだと思う。

 まあ、ちょっと今そこに立ち入って書く気はないのですが、自然に自分の声を聞いて生きることを歪める様々な条件があるのだと思います。

 いかにして、その声を聞くことを回復していくのかということは考えなくてはいけない。

 例えばそれは、所有や嗜癖に逃げている自分を自覚するということもありましょう。

 

 自分が何をしたい人間なのか、自分がどんな人間なのかとういことに疑いがなければ、いやそれじゃだめだお前はこうしなければいけない、などという声など騒音程度のものでしかなくなる。