エーリッヒ・フロム「人生と愛」を読んだ。だからメモ書いてく。 ―― ②
引き続き、エーリッヒ・フロムの「人生と愛」のメモを書いていく。
・「しかし、、私が思うに、今世紀に新しい宗教が発展したと言える。それを私は〈技術の宗教〉と呼びたい。
技術の宗教には二つの側面がある。その一つは逸楽の園である。すなわち妨げられることなく、限りない欲求の充足の夢である。欲求は絶え間なく生み出され、終わることがない。人間は口を開いた永遠の乳飲み子さながらに、食べ物を与えられるのを待つ。もっと、もっと、もっと、と。楽園は絶対的享楽の経験であり、受動と堕落を生むまやかしの過剰の経験である。技術の目標は努力を取り除くことにある。
《中略》 自然の秘密は同時にその創造主であった。少なくとも部分的にはそうであった。四百年の間、人間は自然を支配するために、その秘密を知ることにエネルギーを費やしてきた。その最も深い意図は、自然、あるいは世界をただ観察者として眺めることではなく、みずからそれを作りうることであった。極端に先鋭化して言うなら(この場合ぴったりした表現を見出すのは、たいへん難しい)、人間は自ら神になろうとしたのである。神にできたことは、人間にも出来なければならなかったのだ。」p52
「しかし、いずれにせよ、この新しい宗教は、技術的に可能なことはやらなければならないという一つの原理を除いて、何の道徳原理をも告知しない。技術的可能性が道徳的義務になり、道徳の源泉自体になる。」p54
現代の倫理はただ一つの原理で説明される。それは、手に入れられるものはすべて手に入れられるよう努力し、望むことがありながら今それが実現できないならば、それが可能になるように技術を発展させなければならないという要請――つまり、人間は神になることを目指さなければならない。
何かに満足したり、限界を認め、不完全性を受け入れることは、不道徳なのである。
人はあるがままであることは許されない。何か不都合があったり、充足させられない欲望があれば、それを克服しなければならない。
それを受け入れ、ただ自分の内から望む方向へと活動したり、自身を発展させていくことは許されない。
人は神が何であるか知ることができるはずであり、またそれを目指して発展していかなければならないのである。
自然というのは解体し、神のごとくなれるはずの人間に征服され、その都合に合うように作り替えられなくてはならない。
それは人間という自然に対しても同じなのである。
・「その不誠実さとは、人は、なぜ自分が罪の意識をいだいているかを隠さなければならないし、また自分が良い性格のかたまりであるかのように、いつも見せかけていなければならないという意味での不誠実さである。《中略》人間の現実が最も良いものも最も劣ったものをも含んでいる、ということを認めて容認すれば、まさにそれが人間的なことである。私たちの否定的な潜在性にいきどおりをいだくのではなく、それを私たちの人間としての存在の一部として体験することが大切である。」p58
「あるがままの人間には、必然的に性的欲望があるのだから、それが悪いとなれば、罪の意識をもたざるをえない。性の制限は罪の意識を導き、その罪の意識が多くの場合、権威主義的倫理を作り上げ維持することに利用されるのである。」p60
このような社会であるので、必然的に人間は、嘘をつくことを強いられながら生きることになります。
こうあるべきであるという要請を内面化し、そうでない部分は矯正しなくてはならない。矯正できないなら、それが存在しないかのように振る舞わなければならない。また、自分自身でさえも、自らの中にあるそれを認識できなくなります。
自分で自分に嘘をつくということ。
そして、どんどん自分というものがわからなくなる。
自分が何を望んでいるのかも、何をしたいのかもわからなくなる。
ふとそれを感じてしまったら「自己嫌悪」が発動するように人間は調教されているわけです。
自分は罪深い、だから愛されるような存在にならなければならない。
正しい在り方を教えてくれるのは、自己の中にある良心ではなく、外的権威です。
そうして人々は操作され易くなります。
自分が何をする人間なのかわからなければ、自信は生まれません。信念も育ちません。
従うべき自己がないので、それを外部に求めざるをえない。
そこには自分を突き動かす内的な力というのはどこにもありません。
それは時間をかけて育てるようなものなので、外的権威に従う限り、自己というのはどんどん無力で頼りないものとなっていくのです。
そしてどんどん依存的になる。空いた時間には、何をすればいいのかわからないので、退屈と不安と焦燥を紛らわせてくれる刺激に逃げるしかない。
・「能動的人間は、自己を失ったりしない。彼は彼自身であり、ずっと彼自身になり続ける。より豊かになり、より大人になり、成長する。受動人間は、すでに言ったように、永遠の乳飲み子なのである。彼が何を消費するかは、結局どうでもいい。いわばつねに、口を開けて、哺乳びんを待っているのである。それから徐々に何もしなくていいことに満足するようになる。それに対して、彼の精神力が求められることは全然なく、ついには彼は弱々しく疲れ果て、眠気を催す。この時生じる眠りは、健康な、活力の回復というより、むしろ退屈による無感覚であり、消耗なのである。」p62
自分の肉体的、精神的諸能力を何も使うことなく、ただその刺激に欲すれば享楽を与えてくれるような受動的体験は、いずれその刺激に対する歓びを失わせ、ただ退屈だけが訪れるようになる。
ただ欲求の充足を与えてくれることを無力に待つ乳飲み子であり続けるのならば、人は自身の中から生まれる力の感覚を育てる契機を永遠に失う。
「それは、次のような欲求を高め満足させることが大切だという洞察によって可能になるにちがいない。すなわち人間をより能動的に、より生き生きと、より自由にするので、人間はもはや情熱にかりたてられたり、単に刺激に反応したりして生きるのではなく、生まれながらの力を解き放ち、自己にも他人にも生気を与え、豊かにし、活気づけることに惹かれ、心を開き、興味を持つようになるような欲求である。」p62
生きる歓びを与えてくれるものは、何か外部によってもたらされる受動的体験だけでない。自ら能動的に自己を行使し、その体験によって、自己の力を感じる満足を得るということもできるのである。
後者は、それを使えば使うほど成長し、より高まっていくようなものであるが、それをせずに無力感に苛まれ、その苦しみから逃れるために乳飲み子であることを望むのであれば、いずれ人は生きる力を失ってしまうであろう。
「私たちはほんとうに生きたか、また生きているか、という問いを。私たちは生きているだろうか――あるいは生きられているのだろうか。」p64
自己の内から力を汲み取ることを知っているものは、ほんとうに人としての生を生きているといえるが、その力の感覚を知らないものは、何か外部にそれを与えてくれる存在を必要とすることになる。
何か無力感を忘れさせてくれるような刺激を与えてくれるものに依存する。
何か力の錯覚を与えてくれるものに従う。また、従える。
ほんとうに生きるということをしなければ、人は自分自身であるということを捨てざるをえないのである。それはまさに、死なないことを選択しつつも、生きことをしてはいないような生である。
「しかし、私はこのような変化をもたらす条件は一つしかないと信じている。それは、人間がより多くの生とより少ない繰り返しを求め、退屈を拒み、自分を活気づけ、自発的にし、さらにはより自由に快活にするような欲求を求める、という深層体験である。」p64
「ぶつかり合う目標を追えば、人間も動揺に精神的に病む。平衡感覚と、自意識と識別能力を失う。《中略》だれもが各々『お前は短い間生きるだけなのだぞ――お前はだれなのか。ほんとうは何を望んでいるのか』と反省することによって、答えを見出そうと努めるべきである。」p66
・「この狩猟民は原生林に住んでいて、原生林を母とも思っている。彼らは――どの狩猟民もそうであるように――必要なだけ、食べられるだけの動物を獲る。貯蔵するということはもちろんまったく考えない。肉を保存することができないからである。必要とする、ちょうどそれだけを獲る。余剰は多くない。しかし、生きるにはだいたい足りる。だから私有財産はない。そして指導者がいない。その必要がどこにあろう。生活は状況によって規制され、だれもが何をすべきかを知っている。この種族には深く根ざした民主主義があると言ってもよい。だれも他人に命令するということはない。そうする理由がないからだ。人に何かを命令しても何の利益もないはずである。当然搾取などもない。
《中略》しかし彼らは養ってもらえるという信頼を原生林に対して持っている。もっと消費しなければならない、もっと節約しなければならない、もっと所有しなければならない、という考えにとりつかれてはいない。だから総体にたいへん満足している。そのような部族こそ真の過剰社会である――そんなに豊かだからではなく、持っている以上のものを望まないからである。そして彼らのもっているものは、安定した、しかも快適な生活を送るのに十分なのである。」p78
自分に必要なものが何か、自分がしたいことは何か、それがわからなくなってしまった人間は、抱くべき欲望(これを手に入れればお前は幸せに近づくと)を教えてくれ、また退屈を紛らわせてくれる刺激を与えてくれるものに依存し、消費を繰り返す。言わばこれが現代における「過剰」である。
その欲求には一時の充足もないので、無限に消費を必要とする。だから、人々は常に「足りない」不安に取り憑かれる。抱かされた欲求はすぐに満たさなければいけないし、どこまでも終わりが無いので、手に入れられるものは無限に所有することを欲する。彼らにとって、世界はゼロサムモデルである。早く手に入れなければ、誰かに奪われてしまう。圧倒的に、すべてのものが足りていない。永遠に満たされない欲求を、少しでも他者より多く満たすために戦わなければならない。
一方で、自身に必要なもの、自分が本当に欲しているものを知っている人がいる。
彼らにとっても、世界は「過剰」である。しかしこの過剰は、「豊潤」さである。
彼らは自身に必要なものを知っているので、常に満足している。その時々必要なものを満たしても、世界は圧倒的に取り尽くせないもので満ちている。
彼らは世界を信頼している。世界に抱かれ、安心している。
・「たいていの戦争は、まず政府が人民に襲撃の可能性を信じ込ませ、生命、自由、民主主義その他もろもろのもっとも神聖な価値を守らなければならないと信じ込ませて、初めて起こるということを。」p80
「第一に、動物は脅威を現在において経験する。つまり『自分は脅かされている』という経験をする。人間は考えることができるから、未来を思い描くことができる。したがって、人間の場合は、脅威が今存在するからではなく、未来に脅威があることを計算できるから脅威を経験しうるということもあるのである。かくして、人間はこの瞬間に存在する脅威ばかりでなく、未来にある脅威に対しても、攻撃的に反作用する。当然そのことによって、反作用的攻撃はずっと広範囲になる。なぜなら、人間の数と、未来の危険や脅威をはらんだ状況の数は膨大だからである。」p85
「人間には特有の死活の利害があって、それは人間が価値や理想や制度を持ち、それらに自己を同一化するということに基づいている。それゆえ、このような理想や、自分にとってかけがえのない人たちや、自分にとって神聖な制度などに対する襲撃は、自分の生命や食料に対する襲撃と同じ意味を持ちうるのである。」p86
動物も自信が脅かされれば攻撃性をもつが、いかに人間に特有の攻撃性が、広範で複雑なものになるかという話。
人間の攻撃性も動物と同じように本能的なものだから云々という与太話を退ける。
別に、だから人間は罪深いとかそういう話ではなく、そのメカニズムを知らなければ、それを如何に回避しうるかということも考えれないということ。