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「この記事を読めばわかる!? 政治とは? 思想とは? 近代とは?」 福田歓一【近代の政治思想 ―その現実的・理論的諸前提―】を読み始めたのでメモを書く①

 

近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提 (岩波新書 青版 A-2)

近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提 (岩波新書 青版 A-2)

 

 

 「政治」とはなんでしょうか。

 

 「わたしとあなた」というように、二人の人間が共に居て、なにかしらコミュニケーションをとりながら生活する場合、そこにはその「人と人の空間」を下から支える「何か」があるように思います。

 人間というのは、当然ながら、なにかしらの「欲望」を持って生きているわけですが、二人以上の人間が共にいれば、お互いの利害が噛み合わず「紛争」というものが起こる。

 

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↑ 紛争

 

 言わば、その紛争解決、利害調整というもののありとあらゆるプロセス(それは小さなものから大きなものまで含めて)が、「政治」と呼ばれているわけです。

 そのように考えてみると、政治というのはどこか遠くの、それこそ様々なメディアを隔てた向こう側の、例えば「国会」で「国会議員」によって繰り広げられるような、何やら難しい――見ようによっては意味のないようなやりとりだけでなく、私たちの生活世界のありとあらゆる場所で営まれているコミュニケーションは、皆「政治」であるというわけです。

 しかし、そのようにして営まれる政治というものを下支えし、可能とする論理というものは、私たちが日常生活において、まさにその政治を意識していないように、無意識化で作動している多種多様な共通認識(観念)に依っています。

 そしてその観念というものは、まさしく広い意味での「思想」と呼ばれるものなのです。

 

 私たちは日常生活を送るにあたって、明示的・非明示的な「道徳・倫理」を内面化し、これはこうすべきである、これはこうすべきでないという共通認識の下に、なんとか「社会」というものをやっています。

 ですが、考えてみますと、その内面化された「ルール=あるべき」というのはどこからやってくるのか、これは中々難しい問題です。それでもいくつかはっきりとしたものは歴史の中にあって、例えばそれは「宗教」であるとか「血縁」といったものであったわけで、さらには、「階級」というものもあった。兎にも角にも、その時代、地域に特有の文化的前提に支えられて、ようやく政治というものは可能になっている。

 特に近代以前の時代であれば、そうした諸々は、はじめからそこにあって変えられない――「所与」の「自然」なものとして捉えられていた。こうなってくると、それらはとても安定していて、何か外的な変化がもたらされない限り、彼らが営む「共同体」はそのまま、完結した「世界」そのものを意味するものでもあったわけです。

 実はこの事実に政治思想的な意味での「近代」というものが何であるのか、見えてくる。つまり「近代」(特にヨーロッパ近代)とは、その「所与」のものとして既にそこにあって、意識されることなく人々の営む政治を下支えしていた様々な前提(=広義の思想)を、それがなんであるのか明らかにし、どころか、それを自覚的に(その前提を含めて!)構想しようとした時代であった、というわけなのですね。

 そしてそのようにして構想可能なものとなった(狭義の)思想が、ときにイデオロギーと呼ばれて、現実変革の力として人を動員したりするわけなのです。

 

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↑動員された人々。ゲルルルルゥ~^^

 

 逆に言えば、既にそこに与えられた政治というものを可能としている前提があるなどと考えず、ただ事実を事実として記述するだけならば、それこそまさに「現実追認主義」とでも呼ぶべきものであって、皮肉なことは、ある種の理想主義として「イデオロギー」を嘲るために、現実とは何かについて語ることが、その姿をもってまた一つに「イデオロギー」に過ぎない――逆説的に、イデオロギーが政治を動かす近代以降の政治の姿を明らかにしてしまっているということなわけです。

 また「現実主義」を標榜するものには、究極的には「(物理的な)力」こそが政治を動かしているのだとする向きがありますが、しかし今の政治社会においては当然「力」というのは組織されてこそその効力を発揮するのであって、その「組織」を可能とするものこそが「思想」であったりするわけです。

 「権力」と「政治」は切っては離せないものでありますが、そこでただ力しか見ないというのは、それはそのまま「終わりなきクーデタ」こそが政治だと言うようなものです。これは本当に重要な論点です。「思想」を意に返さない、簡単に切って捨てる者は、自分は権力はクーデタで手に入れると言っているわけで、そのような考えの者はクーデタに対抗するために権力の「暴力」による安定を望むしかない。そのような「現実」とやらを望まない者は、このことを自覚して、そのような権力者がいないかよく観察しなくてはいけないでしょう。

 そうしてみると、「民主主義」というのは、人々が「思想」を自覚的に選びとり、さらには作り上げ、政治社会の基盤に据えるための手続き――それもまた一つの「思想」的前提と言えるかもしれません。

 

 というわけで、政治とは何か、思想とは何か、近代とは何か、でありましたが、こうした前提を理解してみると、具体的にどういう社会背景のうえに、誰が何を考え、何を言ったのか、そしてそういった「思想」がどのような力をもって政治社会を変革し、また作り上げていったのかというのにも興味が湧く、というものではないでしょうか。

 できれば、そこらへんを小出しで、分かり易くまとめながら記事を色々書いていきたいなーとか思っています。

 ええ、自分のために。

 

(ところで、この文章は僕自身の理解のための「メモ」ですので、本文のいろんなものを読み違えているかもしれませんし、色んなものをそぎ落としているはずだし、どころか余分なものを継ぎ足して、もはや僕の言葉に過ぎないようなものになっているかもしれない程ですので――著書の正確なところを知りたいと言う方は、自らあたって下さいませ。いちおう)