ガッチャマンクラウズ インサイト 12話(最終話) 感想② 「ヒーロー(補)」(7659文字)
はい、というわけで、結局いつもの調子で物語を追いながらの感想記事も作っちゃいました。
なので、前回の記事で書いたことについてはあまり言及せず、さらりと行きたいと思います。(といいつつ、本文5000字以上はある)
今回のサブタイトルは表題の「insight」ですね。
この意味がどう扱われてきたかは、吹き出し様の意味とかでいくらか言及しましたし、本編でもたくさん描かれてきたので大丈夫ですね。
それでは、最後ですが、いつもの調子で書いていきたいと思います。
「カッツェの力を使うということは、悪魔と契約するようなものなんだよ」
「累くんもクラウズを使ったっす、でもクラウズはカッツェさんじゃなくて、累くんのものになったっす」
「それはそうだけど……」
かつてカッツェからクラウズの力を与えられ、結果的に社会を窮地追いやってしまった累くんは、はじめちゃんの選択の危険性を訴えます。
それに対してはじめちゃんは、るいるいはちゃんと自分の意志で考えて、カッツェと真正面から戦い、クラウズのテロリズムに打ち勝つ人々の可能性を引き出したじゃないかと返す。
るいるいがその危険性を承知しながらも、自らの「意志」のために可能性へと賭ける選択をしたことは、はじめちゃんがこれから為そうとしていることと同じだということとですね。
カッツェの力を使う危険性を犯してでも、はじめちゃんには為したいことがある。それはるいるいと同じで、「譲れないもの」があるということですね。
「くうさまとクラウズは違います。くうさまを動かすのは無意識。クラウズを動かすのは意志です。あなたはその強い意志で、クラウズをベルク・カッツェから奪い、自らの力としました。それはあなたが何者にも流されず、一人で考えた結果です」
その譲れないものというのは、恐れず自分と向き合って、自ら考え続ける中でようやく獲得できるものなのです。
「俺はリスクが高過ぎると思う。そんなことをしても、みんなが自らの過ちに気付くとは思えない」
「それはやってみなきゃわかんないっすぅ!」
「ふざけるなぁ! そんな無謀なことはリーダーの私が許さん!」
「じゃあぱいぱいは、リーダーとしてどうするっすかぁ?」
「うぃい……」
「この空気に流されて、ゲルちゃんがみんなに殺されるのを黙って見てるっすかぁ? それとも、JJに聞いてみるっすかぁ? そんなんじゃあ、僕ら永遠に変われないっすよぉ」
差し迫った状況――これは前回の記事で書いた「人間的な真価を問われるような状況」というものです。自らの意志と責任において、自ら選択し、決断しなければいけないような状況ですね。
はじめちゃんはそのことをちゃんと認識しているので、丈さんやパイパイに対して追求の言葉を返します。「リーダーとして(責任ある個人)」何もしないでよいのか、「黙ってみている」だけなのか、「JJ(他者)に聞いてみる」のか――でもそれじゃあ変われないと言うわけです。何か決断を迫られる状況において、自分が譲れないものとして何を意識的に選択するのか、それこそが真に「わたし」が何者かを規定しうる。
そういう作法で生きて来なかった人は、何かを決断しなくてはいけない状況でも、自分が何を決断する人間なのかわからないわけです。そして、空気だとか、何か権威をもった誰かだとかに決めてもらうことになる。何より、本人は決めてもらったことを、自ら考えた選択だと、往々にして思い込んでいます。そうして、永遠に「自分」というものを育てる契機を失ってしまう。
しんどいかもしれないけれど、自ら考え、自ら決断するということを経験していくしかないのです。
「やられるのは誰でもいいんす。でも、これは僕にしかできないことっすから」
「何言うてはるのはじめたーん。ミーのおかげでしょうがぁ」
「そうっすねカッツェさん。でも、カッツェさんの好きにはさせないっすよぉ」
ゲルサドラを救いつつも、今の空気を打ち壊す。それをできるのが、カッツェを取り込んだはじめちゃんだけ。だから、しょうがないけれどヒーローとして自己犠牲を払う――というようなお話の流れ出ないということは前回の記事で書きました。O.D.の言う通り、この「決断」は、はじめちゃんによる、はじめちゃん自身の「望み」のためのものです。
それと、ここではじめちゃんがカッツェの好きにはさせないと言っているので、この計画にカッツェが力を貸すのは、彼が心変わりしたとかではなく、あわよくば何か彼にとって愉快なことをしてやろうとか、もしくわ、ガッチャマンの目論見自体を否定したい――「みんな」がそう簡単に変わることはないということを見届けてやるというような含意があるのかもしれません。
(ただ人情的には、カッツェもちょっとはガッチャマンに付き合うのを楽しく思うようになったのならいいですよね)
「でも、私は覚悟を決められませんでした。そこまでする必要が本当にあるのか、どうしてもわからなくて……」
みんなで考えた末に、自分たちが為すべきことを決断した鳥たち。空高く飛び上がる彼らを見上げながら、ただその流れに混じるのではなく、わからないことをわからないままに自ら考え続ける青き翼。
「どうして気づかなかったんだろう」
「それはみんなと一緒で安心だったから」
「じゃあ今、どうして僕たちは気付いたの?」
「一人になったからだよ。一人になって、立ち止まってちゃんと考えたから」
「そうだね、僕も考えたよ。僕がいなくなればみんな満足するのかなって。でも僕思ったんだ。消えたくない、もっとここにいたい、もう一度つばさちゃんに会いたいって」
「ゲルちゃん……」
「はじめちゃん、それでいいって言ってくれた、嬉しかった。だから僕、はじめちゃんに協力しようって思ったんだ。はじめちゃん、空気を止めてからもう一度みんなに聞きたいって、僕をどうするのか。僕はその決定に従うつもりだよ」
孤独で寂しい人間は、一人で考える不安に耐えられない。でも、自分の気持ちに気付いて、自分がしたいことを知っていくためには、誰かにそれを教えてもらっているのではいけない。そうしないと、どんどんわからなくなってしまう。
「みんな」から外れてしまった二人は、それぞれ自分で考え、自分がしたいこと、自分がすべきことを探したのでした。
僕はしょっちゅう言ってることですが、人が自分の声を聞いて、あるがままに生きるためには、それを尊重してくれる他者との関わりが必要なのです。特にそれは幼児期の発達段階において決定的だという話もしたかと思います。げるちゃんに関しては、精神分析の話しをもちだしたりしました。自らの抑圧について、治療者のサポートの下で深く考えて、それについて語る。そして、その自分の中にあって、自分で気づいていなかったものについての物語を承認してもらうことが、治療的効果を及ぼすのだということでした。
現実にそのように関わってくれる友達がいればとっても生き易いのですが、そういうのは一朝一夕で出会えるものではないので、やはり現代社会においてカウセリング的なものが必要とされるのはしょうがないことなのでしょう。
「みんな、僕思いっきり戦うっす! みんなも思いっきりやって下さいっす! 大丈夫っす、僕らみんなヒーローっすから!」
「あいたー! 怒だおっ!」
「まだまだっすよー!」
「ガッチャうぜえー! 惨殺キボンヌー!」
(つばさちゃんの悲壮な表情)
「まじやん……こいつらまじですやーん!」
「もっとっすよみんな……もっとっすっ!」
「負けないっす……絶対負けないっすっ!」
そしてガッチャマンによる壮絶なはじめちゃんへのリンチが始まる。
最初こそ元気に発破をかけるはじめちゃんですが――跳ね飛ばされ、叩きつけられ、切り刻まれ、燃やされれば、当然の如く耐え難い苦しみに悶える普通の人間に過ぎません。
それでもはじめちゃんは、自分に「負けまい」と――ヒーローとして、「自分の譲れない意志に殉じる」ために、もう十分だと庇うつばさちゃんを諭すのです。
「僕らみんなヒーローっすからっ!」とみんなに声をかけるのは、それがどれだけ辛い決断であったとしても、自ら考え自ら決断した意志ならば、僕らはそれを貫くべきだというメッセージです。
このことは次のシーンにおけるつばさちゃんの選択と、はじめちゃんの台詞に繋がります。
(はじめちゃんのメッセージを受け取って、自ら為すべきことを選択するつばさちゃん)
(そんなつばさちゃんを見届けたはじめちゃんは、どこか嬉しそうに、感慨深そうに次の台詞を口にする)
「つばさちゃんっ、ヒーローっすねぇ」
僕はこの台詞、内田さんの演技もあって、凄くぐっときてしまう。涙腺が緩む。
僕が書いてきたことに納得してくれる人はわかってもらえるかもしれない。
ガッチャマンたちの姿と意志を目の当たりにしたリズムくん。
僕は、彼が見ているものというのは、「みんな」とは違うのだと思います。
明晰で、主体性を愛するが故に、サルたちを否定した彼は――むしろ、ガッチャマンの視点からことの顛末を見ている、というのは考えすぎでしょうか。
「みんな」が気付かされたものはあくまで「くうき」の危険性に過ぎません。自分たちはそれに絡み取られて、何か大変なことを犯し得るということに思い至ったに過ぎない。その時点ではまだ主体性があるとまではいえません。僕の考えで言えば――まだ彼らは「ヒーローになり得る」者になったに過ぎない。
それに対して、覚悟をもって事にあたったガッチャマンたちは、これまで述べてきたように「ヒーロー」です。
リズムくんにはおそらく、そのことが見えている。
そして彼は、そうしたガッチャマンの示したヒーロー像に、何かここで自己の変革を迫るような影響を(微弱なものかもしれませんが)受けつつあるのではないか。
僕はそういう風に、人が何か凄いもの「感染」(社会学者の宮台真司の言い方)して、自分を変えるきっかけとするということは悪いことでない――というか、人間にとって必要なことじゃないかと思っています。
当然そこには、変なものに引っかかるリスクはあるわけですが、そこをどうクリアしていくかということを考えることを含めて、大切なことではないでしょうか。
彼の言う2:6:2の話に言及すれば、上位の2の人は以下の人を「信じて」働きかけるべきだということです。以前のリズムくんは皆が内発的であれることを理想と考えながらも、「信じて」いなかったわけですね。それに対して、るいるいやはじめちゃんは「信じる」という「賭け」をやり続けてきた。僕の言うところの「ヒーロー」というのは、後者の姿勢でもって、実際に人に影響を与えることのできる人のことです。リズムくんはまさにその「ヒーロー」を目の当たりにして、少しは人間を信じようという気になったのだと、僕は思うわけです。
「ヒーローは目の前の人間を救うだけじゃない。時には自らを犠牲にして、多くの人を救わなければならない。私は先輩にそのことを教わりました」
自分の命を賭けてでも、自分が本当に救いたいと思うものがあるか。もしそれがあるならば、ヒーローはそのために意志を貫かなければならない。
(むしろ主体性をもって碌でもないことしてるやつのほうが、変えるのは大変)
(僕は正直こいつ憎めないwww)
「これは、あたしたちみんなの大切な問題です。あと一ヶ月。みなさんじっくり考えて、自分だけの答えを出して下さい。あたしも考えます」
というわけで、ゲルちゃんの処遇について、みんなに今一度ゆっくり考えることをつばさちゃんは求める。
ここで一つツッコミを入れると、こういう「三択問題」を選ぶ「自由」があるとは言えるかもしれませんが、本当に重要な「自由」というのは、問題自体を自分で設定できる、ということなのです。
それも含めて、主体的に考え、政治参加するということが、真に理想的な市民社会なのかもしれませんが、実際的には、与えられた選択を選ばざるをえないという状況があるわけですね。
ここらへんの問題について、前々回の記事で「積極的な政治参加が政治家を作るんだ」というふうに僕は言ったのでした。与えられた選択肢程度の自由に不満があるという場合は、自らその選択肢を政治に反映させるために、市民が代議士に圧力をかけて行かなくてはいけないわけですね。
まあともかく、そこらへんは主題でないので、とりあえずはここらへんが今の「みんな」にはいい塩梅なのかもしれません。そのことを不十分さに、あれ、おかしいぞ、と気付くには、また別の事件が必要なのかもしれませんね。
「先輩はこんなこと望んでません! みんな、ほんとうにそれでいいの? それみんなのほんとうの気持ち? わたしも一人になることが、みんなと違うことが怖くてしかたなかったけれど……そんなんじゃいつまでたっても変われないから、自分一人で考えます! だからみんなも、ちゃんと自分の足で立って、自分にしか出せない答えを見つけて下さい! お願いします」
感情に流され、集団となって吹き上がるだけで、物事を深く考え、自分が個人として主体的にするべきことをみつけることができない「みんな」。結局危惧されたとおり、以前の空気は止まったけれど、また別の空気に流されているだけ。
はじめちゃんが望んだものはこんなことではなく、みんなが主体的に考えて、自分自身を生きてくれることだったわけです。
献花の中のメッセージに「そしてあなたは私たちの為に生きてくれた」とかありますけれど、これ鳥肌たちますねwww
まさしく、はじめちゃんの行為を尊い自己犠牲だかなんだかに勘違いしてる奴が書いた文章です。
何度も言いますが、はじめちゃんははじめちゃん自身の望みのために殉じたのであって、自己の命を外の誰かのために優先させたのではありません。
「今また一つの方向に空気が動き始めている気がするのです」
「同感だ。でもそれは仕方ない」
「どうしてですか!?」
「突然はじめのあんな姿を見せられても、一つの感情に流れてしまっても無理はない」
「でもそれじゃあ、また愚かな選択をしてしまいます」
「つばさちゃん落ち着いて、まだ投票まで時間はあるよ。時間をかけろって言ったのは俺たちだろ」
(監督の趣味だろうか。るいるい)
「先輩、みんなちゃんと考えてますよ」
空気に流されるだけの人がいる一方で、立ち止まって中和しようとする人がいる。
感情的に空気を形成するのではなく、物事を深く考えようと、少しづつではあるが、人々が変わってきている。
(ぱいぱいwww)
「こら、なんとか言わんか! 噛みつくぞー、このー!」
第12話のハイライトシーン。
「だめだよゲルちゃん。笑お。こーんなにいい空気なんだから。ね、せんぱーい」
はじめちゃんの快復を願って、心を一つにするガッチャマンのみんな。
「いい空気」というのは、1話で出てきたフレーズですね。
空気が人の内発性を排除してしまうとき、それは大変危険なものとなりうるわけですが、人々が形成する「空気」そのものが「悪」なのではない。
むしろ、それぞれ違う人間が寄り集まって、それでもその違う他者同士が共に共有できる「空気」が作れるとき、それこそが本当に目指すところなわけですね。
僕が一連のはじめちゃんの記事で書いている、本当の意味で「孤独」と「不安」を乗り越える人と人との関係というのを表現しているシーンだという気もします。
人々が変わり始めるのと共に、ゆるじいの将棋の盤面もようやく動く。
みんなが以前よりちょっとだけゆっくり深く考えた結果、ゲルちゃんを地球に残すということで選挙は終えられる。その結果は極端なものではなく、異なる意見がせめぎ合うものであった。
多数派にそう決められたからそれに従うのではなく、自ら願った想いが遂げられたことに、ゲルちゃんは心からの喜びをその表情に浮かべる。
人間をサルだとして何の期待もかけなかったリズムくんだが、ガッチャマンの示したヒーローの姿に感化され、また「みんな」が示した可能性の萌芽に、どこか清々しげな微小を浮かべ、去っていく。
(この人テロの首謀者&脱獄犯ですよね)
「私は誰も贔屓なんてしていません。国民の決定に従ったまでです」
「国民のせいにする気か!」
「そうですよぉ。これはぁ、わたしや秋山さん、吉川さん、岸田さん、一人ひとり、みーんなのせいです」
まあしかし、代議士が代議士としての職務や約束を無視して好き勝手振る舞う場合は、決められた規則に基いてその責任をとるということはあるわけですけれどね。
ただ一方で、そういう不誠実な輩を選んだことについて、有権者自身は自ら反省する必要もあることは事実。
政治がもたらした最終的な結末に、政治家という個人は責任をとることはできません。民主主義という制度をとる以上、遡及すれば、結局目の前に現れる現実に立ち向かって、自分の人生を作り上げていく責任は、有権者個人にありとしかいいようがない。
「ゆるゆるゆるゆるー」
「違う」
「えー、まだ違うのー」
「イライラするな、もう一度」
「ゆるーゆるゆるゆるゆるー」
「違う」
「えー、なんでー!」
かわいい
げるちゃんも大分感情表現豊かになりましたね。
(くうさまは残り、首相が返り咲いたことでクラウズも利用されているようです)
(梅ちゃんが幸せそうでなにより)
というわけで、今度こそ終わりです。
エピローグではその後のみんなの姿が描写され、はじめちゃんも何事もなかったのように復活して、大団円となりました。
まあ、はじめちゃんすきすきーな僕が言いたいことは、前回の記事で、いかにはじめちゃんが素晴らしかと延々書き連ねたのでもうこれ以上はいいでしょう。
1クールアニメとしての評価とか、アニメという媒体としての主題の描かれ方の成否とかは僕はあんまし言いたいこともないので、それはどこかの誰かにお任せします。
もっとエンタメとしてうまい「表出」ができたならば名実ともに名作となりえたかもしれませんが、表現したかったことはまあ出し尽くせたのじゃないでしょうか?
僕みたいに深読みしてメッセージを受け取る人間としてはちゃんといただきました。
そんで、僕の興味と、僕ができる語り口みたいなものについては、色々言えたんじゃないかと僕自身は満足しているので、前回の記事の繰り返しですが楽しかったです。
再び後語りを長くしてもしょうがないので、まあそんなところで。
今度こそ。それではまた何かのアニメで!
ガッチャ!