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ガッチャマンクラウズ インサイト 12話(最終話) 感想① 「ヒーロー」(8716文字)

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はじめに

 

 さて、ガッチャマンクラウズインサイト、最終話である第12話が終わりました。今回のお話はなんというか、物語的なハイライトは前回までで通りすぎて、その結末というか消化試合みたいな印象を個人的には抱きました。

 それでまあいつものごとく、とりあえず書き始めては見たんですが――そして色々思いついたこともあるのですが、どうもこれまでやってきたフォーマットではうまく書き進めることができなかったんですね。なので、あまりストーリラインを追うことは意識せず、書きたいと思っている中心的なことに絞って書き進めてみることにしました。ガッチャマンクラウズの1期について書いた記事や、この前の卯月について書いた記事みたいな調子ですね。

 それでは、やっていきます。

 

 

はじめちゃんの行為はみんなを救う単なるヒーローの自己犠牲?

 

  まず12話で描かれたいたことがなんであったのかといことですが、つまりは前回のお話の種明かしであるわけですね。

 ガッチャマンたちがいったい何を話し合い、どのような意図をもって、何を決断し、そして実行したのか。

 それは前回の記事で指摘したとおり、空気に流されるみんなに対して、自分たちのやっていることの結末がいったいどのような現実であるのか、またそれは本当に正しいことであるのかということを突き付ける、ということであったわけです。

 しかし、その犠牲にはゲルサドラの命を使うことになるわけですね。で、そのような選択を回避したい彼らは、はじめちゃんがカッツェの力によってゲルサドラになりすますという選択をとることにしたと。

 

 今回の記事で書きたいのは、この「選択」と「決断」にまつわるお話です。

 これを単なるヒーローの「自己犠牲精神」ととらえるだけで終わってしまっていいのかということ。

 このはじめちゃんの行為に対して、もう少し違う視点でスポットを当てることは出来ないだろうか。

 そういうことを考えてみたくて、見切り発車ですが、記事を書き始めました。

 

人間を信じるとはどういうことか ―― 吉野源三郎

 

 そこで、このことを考える参考として、例のごとく、ある人物のエッセイを踏み台にしたいと思います。

 それは、吉野源三郎の「ヒューマニズムについて」という文章です。

 これは今簡単に手に入るものでは、岩波現代文庫から出ている「人間を信じる」の中に収められています。

 

人間を信じる (岩波現代文庫)

人間を信じる (岩波現代文庫)

 

 

 吉野源三郎という人物について言うと、彼は1899年の生まれで、大戦以前からベトナム戦争まで、まさに人類史上の凄惨で大規模な争いを一通り体験してきた世代の人です。有名な著書だと「君たちはどう生きるか」であるとか、あとは雑誌「世界」の初代編集長として知られている人物だということですね。

 そしてこのエッセイの中身について噛み砕いて言うと、「悪も善もなしうる人間を『信じる』ということはいったいどのようなことなのであろうか。それは、過去人間の為してきた善と悪についての膨大な帳簿をつけ、また学術的に分析すれば明らかになるような性質のものであろうか。人間は信じるに値するのか否か。――実は、そのように客観的に人間の善悪を同定しようとする視点自体が誤りなのだ」というような感じです。

 ではこの問題意識がどう今回のエピソードの関わるのかということなのですが、この要約に対する吉野の解答が、まさしくはじめちゃんの選択と決断の姿勢のことを言い表しているのではないか、と僕には思われるのです。

 そういうわけで、このエッセイの結論部分に言及しつつ、ガッチャマンクラウズインサイトによって新たに描かれた一ノ瀬はじめの人間像について、僕の見ているものを書いていきたいと思います。

 

 善も悪もなしうる、可能性としての人間

 

 結論めいたことから言うと、はじめちゃんは人間を「信じて」いるのだと僕は思います。

(おいいきなりなんだ、と言う声が聞こえてきそうですがどんどん書いていきます)

 この「信じる」ということは、「人間が善きものである」ということを信じるということではありません。

 実はこれは、考えてみればあたりまえの話なのですが、もし仮に「人間は善きもの」であることが客観的な事実として何かによって保証されるのであれば、そもそも人間を「信じる」という行為自体が必要のないものとなってしまうのです。

 つまり、人間を信じるということがどういうことかと言えば、「人間が本質としてどういうものなのか」また「どうなりうるのか」わからないけれども、それでも、だからこそ自分は人間が「善きものへと近づける」と信じるのだということに他ならないのだと、僕は思うのです。

 このようなことを吉野は次のように述べています。

 

  実をいえば、理屈としては、私はずっと前から、このことを知っていなかったわけではありません。かりに、「人間はその本性において善であって、その本質からいって善を為すよう定められている。いろいろな悪事はその現象なのだ、だから人間は信頼していい存在だ。」と、だれかが証明してくれたとします。すると、善とは人間自身の生み出すもの、作り出すものではなく、むしろ、本性上、そうせざるを得ないもの、彼の存在から必然に出てくるものに過ぎないことになります。人間が善をおこなうのは、高いところにおかれた物体がささえをはずれされれば必然的に落下するのと、変わりないことになりましょう。それは、人間が信頼してまちがいのないものであることの証明にはなっても、それとともに、かんじんの人間における人間的なものが消えていっってしまうのです。

 (中略)

 しかし、悪事をやろうとすればやれる能力もあり可能性もあるのに、それをやらないで正しい行動をとったからこそ、その行動は人間の行動であり、善い行動だといわれます。悪もやれる自由のないところには、善をおこなう自由もありません。人間は卑劣なことをする可能性も、残虐なことをする可能性も、醜悪なことをやる可能性も持っているし、同時に、高貴な行動をとる可能性も、無私の親切をおこなう可能性も、みごとな行動をとる可能性も持っているのでした。そして、そのどれをも選べる自由を持っているということほど、人間的なことはないのです。

 

  善きことも悪しきことも行いうる、そうした可能性としての存在が人間である。そして、そのような自由における選択を行えることが人間を人間たらしめ、またそのような選択を通して、そこに人間という存在が常に新たに明らかになっていくということです。

 この事実を前提として考えるならば、ではそもそも「選択」を持たない人間というのは、いったいなんなのでしょうか。自ら現実を認識し、自らに問いかけ、自ら考えることによって、自らの選択を為すということをしない人間。そのような者は――つまり、人間にさえなっていない「サル」なのだということなりましょう。

 これはまさしく、ガッチャマンクラウズインサイトを通じて描かれてきた、空気に流される「みんな」の姿です。

 

みんなそれぞれの「ほんとう」を知りたいはじめちゃん

 

 そうであるとすれば、その「サルたち」を前にして、一ノ瀬はじめは何を思い、何を為そうとしていたのでしょうか。それはつまるところ――「僕たちのことを知ろうとする」ということなのだと思います。

 当然ながら、ゲルサドラになりすますというはじめちゃんの決断は、ゲルちゃんを救いたいということと、この空気を止めて、みんなに空気に流されることの危険性を啓蒙したいということがあるわけですが、それとともに重要なのは、彼女がみんなのことを――「人間」のことを知りたいと欲するような女の子であるということなのだと、僕は思います。

 ここで言う彼女が知りたい「人間」というのは、空気に流される「サル」としての愚かさという一面ではなくて、当然のことながら、自ら考え自らの選択を示す、内発性と主体性をもった「あるがままのその人であるような人」としての「人間」ということです。

 そのように欲する一ノ瀬はじめがどういう人間なのかというと――一ノ瀬はじめは人間のことを「信じて」いる、そしてそのような姿勢は「愛」とでも呼ぶべきものであると、僕はひとまず述べておきたいと思います。

(ここらへんに関連したことはフロム的愛の体現者としの一ノ瀬はじめ ――ガッチャマンクラウズ感想 - メモ帳でも書きました)

 

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「つばさちゃん、だめっす。そのときだけの気持ちに流されちゃだめっすっ!」

「先輩?」

「覚悟を決めるっす。僕らのこと、知るために。みんな、聞こえるっすか。僕を倒したら、もう一度みんなに聞いてみるっす。げるちゃんをどうするのか、きっとみんな、ちゃんと考えてくれるっすよ……っ。つばさちゃん、あとは頼んだっすよ……。つばさちゃんの言葉は、きっとみんなに届くっす。つばさちゃんは、みん なのヒーローっすから!」

 

 つまりは、この自己犠牲のようなはじめちゃんの行為は、ただ自らの命を賭けて何かを救おうとかお涙頂戴的なものではなく(そういう側面のある可能性は否定しませんが)、そのような行為を通じて、人間個々の「ほんとう」を知りたいと、彼女自身が欲し、また「みんな」はそれを見せてくれる可能性をもった存在であると何の保証もなく「信じて」働きかける、彼女自身の「決意の行為」の表現にほかならないのだと言いたいわけです。

 みんなの「ほんとう」を知るには、それを覆い隠す「空気」を剥ぎとって、みんなの「内発性」を呼び覚ますしか、ない。

 

自らの譲れない「信じるもの」のために「賭け」をするということ

 

 こうした「決意」について、吉野は次のように述べています。

 

 「人間を信頼するか、どうか。」「人間を愛するか、どうか」という問題は、矛盾した可能性を同時に持っているこの人間、その可能性の中から自由な意志で何かを選びとらねばならないこの人間、そして、現実からどんな選択を迫られても逃げることのできないこの人間、それをそのまま信頼するか、しないか、愛するか、愛さないか、――これも私たちにとっての一つの選択だということになります。そうです。「人間はこんな馬鹿なことをやるのだ。こんな醜悪なこともやるのだ。こんな悪魔のようなこともやるのだ。それでも、お前は人間を信頼するかね。」という問いかけを受けて、「そうだ、信頼する。」と答えるか、「いや、できない。」と答えるかは、理由や証明にもとづいての帰結ではなくて、私の決意による選択の問題なのです。ソクラテスは、死ななければならないと考えたとき、決意して毒杯を傾けました。私たちにも、決意して傾けなければならない盃があるのでした。それは、死ぬためではなく、おそらく人間として生きぬくために避けられない盃だと、私には思われました

 

 私たちは、何か確かな日常の中に生きて、人間相互の信頼に基いて生きているような気でいるのかもしれませんが、実のところ、それには何の保証もないのです。その日常は、歴史をふりかえってみれば、あるとき大きく崩壊することを繰り返してきたのだし、隣近所に居る誰かが、ある日、唐突に自分に牙を剥いてくることもあるかもしれない。それこそ、その移ろい易さというのは、このアニメを通じて描かれてきたことでした。それでも、我々は、誰かと繋がらずには生きていけない。何かが明日もそこにあることを信頼して生きている(その信頼が著しくない人を、精神分析学的には、境界例だとか統合失調だとか言うのだと思います)。実のところ、何の保証もないけれど何かを「信じる」という賭けは、日常的に無意識的に我々はやっているわけですね。

 しかし、その真価が問われるのは、そうした日常が崩れたときや、今ここにない可能性を求めようというときだということが重要なのです。

 そのようにして何かを「信じる」ということは、まさしく人間個々が何を大切だと思うかに掛かっています。その信じた可能性に向かって、自分の命を賭けられるほどの「何か」を持つということ。それこそ、真にその人間の主体性が問われるものであるということです。

 このわたしにとって譲れないものは何か。このわたしにとっての真理。それを自らの芯として、それに依ってのみこの不確かな世界で何かを決断していけるということ。僕がガンディーを引用してサティヤーグラハについて述べるのは、そのような意味合いです。

 そしてこの姿勢はまさしく、ガッチャマンの救援を拒んだるいるいの姿であり――「僕らのこと」を知るために危険を犯してカッツェと共に生きることを選択し、またゲルサドラになりすましてガッチャマンに切り裂かれる一ノ瀬はじめの姿であるわけです。

 

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「言ったでしょ、つばさちゃん。ときには命をかけてでも守るべきものがあるって」

 

  ですから、O.D.がるいるいのときと、今回の2度に渡ってつばさちゃんに対して言った「守るべきもの」というのは、やはり「自らの譲れないもの」のことなわけですね。これは、自分より誰かを優先するような「自己犠牲」的な何かでは決してなくて、どこまでもただ自分に殉じるという在り方なわけです。

 

 われわれの肉体的自我の要求と、われわれの精神的自我の目標とが対立抗争することがあること、すなわちじっさいに、われわれは精神的自我の統一性を確保 するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。

 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」

 

人間を信じて「賭ける」ことでしか真の人間的関係は得られない

 

 はじめちゃんはばちばちきらきらぁっとしているのが良いと言います。それは人間相互が自らに依って考えるが故に、多様性の存在する世界です。そして、そのようにしてあるがままに在るような誰かと出会うことをはじめちゃんは絶えず欲しています。それは、僕的に言えば、そうやって誰かの「ほんとう」にわたしの「ほんとう」が出会い、ときにぶつかり合いながらも、ときに「わかりあえた」と感じることでしか、人間が本質的にはその寂しさと孤独を克服できないというところから来ているのではないかと思います(何度も恐縮ですが、これについては1期の記事で書きました)。自分が自分であることをやめて、またその人がその人でないような誰かと一緒にいても――それはあるがままにぶつかり合う怖さと傷つきは回避できるかもしれないけれど――寂しさは大きく募っていくだけなのです。

  だとすれば、やはり人間は「賭け」をしていくしかない。自分が自分として生きることで、もしかしたらたくさん傷つくかもしれないし、傷つけるかもしれない。でも、その痛みと恐怖を乗り越えて、誰かと真にわかりあえたと感じる経験を積んでいくことができるかもしれない。それはやはり何の保証もありはしないのです。もしかしたら、死んだように自分の感情を殺して、それを知ることをやめて、空気や役割に溶け込んだほうが楽に生きられるのかもしれません。どころか、そうやって死んだ社会の中で自分だけ息を吹き返そうとしたら、「みんな」に本当に殺されてしまうかもしれないのです。

 しかし、それでも、死んだまま云十年という人生を生きるぐらいであれば、たとえ辛い道行かもしれないとしても、本当に生きてよかったと思えるような人間的な生を得られることを信じてそれに「賭ける」という選択も、人間には与えられているはずなのです。

 だからこそ、そこには人間の人間らしい歴史があった。それは、この人間としての「自由」を巡っての歴史であったとも言えるかもしれないのです。

 

  気がついてみると、私たちは、日常の人間どうしの交渉の中で、証明を求めない選択を絶えずやっていますし、また、それなしには生きてゆけないのです。それはふりかえって考えてみれば、一つ一つが、いわば賭けのようなものだと言えます。しかし、この賭をどんな意味でも絶対にやらないとしたら、人間どうしの関係は、物としておたがいにあつかいあうのと異ならなくなってしまいます。賭けることによってのみ、私たちは友人を持ち、恋人を持ち、人間的な関係を自分のまわりに作ってゆけるのです。ひとりひとりの人間が、それぞれに、自分の願いや希望を賭け、そのとき、そのときの選択をやってゆきます。そして、自分のまわりに人間的な世界を作ってゆきます。そして、こういうひとりひとりの人間の大きなつながりが世の中を作り、さまざまな波を立てながら人間の歴史を編み出していくのでした。

 

 僕にしてみれば、はじめちゃんが1期でやったことも、インサイトにおいてやろうとしたことも、そこには同じ通底したものがあります。つまりそれは、この寂しさや孤独を「真の意味で」克服し、真に喜びのある人間的関係を得ようとする試みに他なりません。

 カッツェの「ほんとう」を知りたいと果敢に問いかけ、彼を自らの中に取り込み、そのことを「そのうちとんでもなく楽しくなる」と述べることと、インサイトにおいて、自らを死の淵に追いやってもでも彼らの内発性に呼びかけ「僕らのほんとうを知りたい」と欲する彼女の姿勢は、僕の目にはまったく一貫しているものとして映るのです。

 

ヒーロー

 

 何故彼女がそこまでできるのかと言えば、それは既に言ったように、彼女が人間を愛し――「信じて」いるからです。

 自ら人間にこうあって欲しいと望む「可能性」に向けて、何の保証もないけれど、そこへ近づいていけることに「賭けて」いる。

 それが、この不確かな世界で自らの主体的な生を保証する、一ノ瀬はじめという女の子の譲れない「軸」なのではないでしょうか。

 常に移り変わっていく状況の中で、無力で孤独な個人として人間は存在しています。

 そのようなとき、自分の内なる声を聞くことをせず、自分というものを知らないままに生きてきた人間は、何か自分の外にあるものに、自分が何をすればよいのか教えてもらうことしかできません。

 自分はどう生きたいのか、何を欲しているのか、そして人間的な真価を問われるような状況に置かれたとき自分は何を信じ、譲れないものとして貫くのか。そのとき頼りにできるのは、自らの内に育ててきた自分自身の「ほんとう」、ただそれだけなのです。

  そして、人間相互がそのように生きる社会であればこそ、人々は豊かな関係性を取り結ぶことができる。それが真に人間的な社会なのではないでしょうか。

 少なくとも、一ノ瀬はじめという主人公は、そのように直感し、その理想へ近づけることを信じて決断を行っているように僕には見えるのです。

 この人間の死に絶えた絶望的な社会の状況の中、そのように自らが自らであることを貫き、他者もまたそうあれることを信じて働きかけることのできる人というのは、また、その姿でもって誰かを勇気づけることのできる人というのは――それこそまさにヒーローと呼ばれる以外の何者であると言うのでしょうか?

 そしてそのような人はまた、そのヒーローとしての可能性が誰の中にでもあると信じるような人であるわけです。

 そうしてみんながヒーローになれたとき、ヒーローはようやくこの社会に役目を終えるのだと、僕は思います。

 

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「みんな、僕思いっきり戦うっす! みんなも思いっきりやって下さいっす! 大丈夫っす、僕らみんなヒーローっすから!」

 

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「つばさちゃんっ、ヒーローっすねぇ」

 

終わりに

 

 よっしゃあ書き終わった!

 思い返せば、インサイト1話を見た時、その題材とするテーマの描かれ方にめっちゃ惹かれたのが始まりでした。

 その後ガッチャマンクラウズを見て一ノ瀬はじめというキャラクターに惹かれて、そんでブログやら巡回してみて、自分も何か書いてみたいなーと思ったのですよね。

 そんで、最初のガッチャマンクラウズの記事で、エーリッヒ・フロムの愛の概念に関連付けてはじめちゃんを考察しました。

 その後インサイトを毎週見ながら、欠かさず日曜に更新してきたのですが、ほぼ放置で何もないブログだったんで、最早ガッチャマンの記事を書いてるブログ状態になりましたね。

 継続は力なりというか、当初のアクセス数の推移からすると、何十倍くらいになりました。

 まあアクセス数というか、自分が感じたことをカタチにするには、自分で書くしかないということでほぼ自分のために書いているに過ぎないのですが、でもこんな冗長なわけのわからん文章でも読んでくれる人がいるのやなぁと素直にモチベーションになりました。

 というわけで、ガッチャマンクラウズインサイトは終わっちゃったんですが、アニメ感想書くのはただ楽しいのでやり続けたいですね。

 何か継続してクールに一作くらいは。

 まあ来期はもうちょいエネルギー使わずに、女の子みてかわいいかわいい言ってるだけのでもいいかな。

 まあそのときやりたいようにやります。

 それでは本当、毎週クソ長い文章に付き合ってくれた方はありがとうございました!

 僕はこんなページ開いたら即ブラウザバックです!

 

 ところで、最終話の記事はまた総括のごとく、僕の個人的興味のままにはじめちゃんに絞った記事書いちゃいましたんで、いつものフォーマットでほんとさらりと記事作成するかもしれません。(しないかもしれません)

 

 それでは!