アイドルマスターシンデレラガールズ 22話&23話感想 「島村卯月の笑顔はアイドルの本質(ideal)である」(8163文字)
ガッチャマンクラウズインサイトの記事はいつもノリノリで書いてる自分ですが、どうもいつもの体裁で、お話を端から拾いながらがっつり書く気力が起きない――一方で、何か言いたいという気持ちで煩悶としていたので、勢いのままに好きなように書こうかなと思います。
ま、何について書きたいかというと当然のことながら「卯月」についてですね。
結局、卯月の葛藤とはなんなのか。卯月とはどういう子で、何が彼女を追い詰め、そしていかにそれを乗り越えうるのか、ということです。
ただ頑張りたいように頑張ることを笑顔で楽しんでいた卯月という幸福な少女
ううん、どういう語り口で書き始めればいいのだろうか。
そうですね、とりあえず何が問題なのかという一つの結論から言ってしまうと、「卯月は自分のためにアイドル活動するということをできなくなってしまった」のだと、僕は理解します。
そもそも卯月はこれまでどのようにやってきたかということを振り返ってみると、別にそれほど深刻な葛藤を抱えながらアイドル活動をしていたようには見えないのですよね。
そう言ってみると、いやそれを自覚せずに抑圧していたから爆発したんじゃないか、と突っ込まれそうですが(というか僕が言いそうなことですが)、僕は彼女がずっとその半生を通してある種の問題を抱えていたんだというよりは、物語の途中で認知が変わって、そこから葛藤(抑圧)が始まってしまったんじゃないかという気がするのですよね。
別の言い方をすれば、それまで問題として意識されていなくて――実際問題とならないのなら問題としなくてもいいのだけれど、ある時から「それ」を卯月が問題と思い込んでしまったのであると。
はい、それでは、その問題とはどんなことかといいますと、「ただ楽しかったり頑張りたいから頑張るんじゃだめなんだ」というような自己否定の観念なのだと思います。
裏を返せば、それまでの卯月は、そういう観念は希薄で、ただ真っ直ぐに自分が憧れたきらきらしたものを追うことができていたし(それを追うこと自体に充実していたし)、不器用ながらも練習して少しづつでも何かができるようになることを楽しんでいたし、実際にアイドル活動が始まっても、目の前の仕事を頑張ること、そこで新たな経験をすること自体を楽しめていたわけです。
これは言わば、結果や(所有的、属性的な)アイデンティティのための努力ではなくて、「過程」そのものを楽しむためのがんばりなわけです。
僕の価値観を言ってしまえば、後者が真に人間として理想的な姿だと思ってます。卯月の家庭は一見して、とても優しい、愛に溢れていそうな雰囲気の家です。事実7話のときも、全体の暗いトーンの中に、一点光が差し込んだように、卯月の家だけ別世界の――優しい世界でした。
そのような家庭で育っているであろう卯月なので、自己肯定感はかなり健全なものだと思います。しかし、当然完全無欠な自己肯定感なんてないわけです。当然ながら家の外は色々な社会的圧力でいっぱいなので、個人は家庭という安全地帯(セキュアベース)を内面化しながら、なんとかサバイバルをやっていくことになるわけですね。社会と折り合いをつけながら、自分のやりたいことをやっていく。
つまり卯月の失敗はなんであったかというと、本質的にはとても健全な「基本的信頼」を内面化しているものの、社会的な場ではちょっと経験を回避してきた――いや、経験を積む機会があまりなかったのではないでしょうか。
そこらへんの世間知らずさというのが高じて、仲のよかった養成学校の友達が全員辞めていく中で最後まで諦めることせず、そして、実際に夢が叶ってしまう。
その後、活動が始まったあとも、CPとしてばらばらだったみんなが一つになる過程の中で、色々な葛藤を乗り越えていく主体は「卯月以外のみんな」であったという気がします。
卯月は社会の現実という壁に混乱し自分が何者かわからなくなる
卯月は主体的に「現実の圧力」というものを認識し、それを壁として葛藤しながら、現実的に折り合いをつけ乗り越えるという過程とはかなり無縁な――「幸福」な人生を歩んできていたのじゃないか。
であるとすれば、卯月にとっての現実の、そして差し迫った初めての、「期限付きの壁」というのが2期における美城常務の存在であり、CP解体という危機であったわけです。
当然ながら、これは卯月個人だけの問題ではなくて、CPのそれぞれが再び向き合わなければいけない現実の問題です。
で、じゃあそれをどう乗り越えてきたのかというと、2期を通して描かれてきたことは「みんなで支えあいながら」、「それぞれが見つけた道へと勇気をだして踏み出していく」ということであったわけです。
そしてNGとしての卯月は、未央や凛という近い存在が実際に踏み出して行く姿を通して、CPがとったそのような戦略を自覚します。いや、取り違えます。
ーーわたしも、誰かにこれと言えるような目標を、個性を、手に入れなくてはいけない、そうやってみんなみたいにきらきらしなくちゃいけないんだ。そうじゃないと、自分はみんなの隣に並べなくなってしまう……。
そう思い込んだとき、CPが歩みだした方向へと自分だけは進むことの出来ていないことを――自分だけ取り残されそうなことを強烈に意識してしまう。
自分が手に入れた心地よい、幸せな世界が脅かされ、みんながその危機を乗り越えつつある中で、自分だけが、袋小路へ嵌ってしまったかのような錯覚に陥ってしまったわけです。
しかし、卯月にとってこのような乗り越えがたい葛藤と直面することはおそらく初めてに近いことであったので、卯月自身はそれが認識できない。22話で描かれた卯月のおかしな――まるで神経症的な悲惨な有様は、この抑圧が引き起こしていたのだと思います。そしてその抑圧は「笑顔」をアイデンティティ化してしまった(そのような方法で葛藤を乗り越えようとした)卯月が、自ら依存した笑顔に失敗してプロデューサーに迷惑をかけてしまったという強いストレスをスイッチとして、パニック発作が引き起こされる寸前まで彼女を追い詰めてしまう。
(血の気が引くような感覚に次いで動悸、周囲の音に敏感になり、視野が狭く定まらなくなり、いても立ってもいられなくなる。不安発作の予期症状)
この異常な卯月の様子に、ようやくプロデューサーは危うさを感じて、彼女に休むことを勧めるわけですけれど、ここから卯月は自分の中の違和感に、ようやく向き合っていくことになるわけですね。そしてこれは同時に、「魔法が解けた」という演出とともに描写されるわけです。
ただ、僕の考察としては、むしろ「悪い魔法にかけられ」て笑顔がわからなくなってしまった卯月が、その魔法を解き始めたようにも見えました(あたかも精神分析の治療過程に入っていくように)。まあここらへんの暗喩はこだわらなくてもいいです。
ともかく、自分の内面に目を向けるようになったものの、結局一人でその過程を乗り越えることは難しいわけです。ここでもやはり、2期で描写されてきたように、「誰かの助けを得て」自分が歩むべき道を模索していくわけですね。つまりそれが、23話で描かれていることです。
結局卯月は、プロデューサーが言ったとおり、自分の状態を「疲れている」と認識(合理化)します。そしてそれまでやってきたようにただ「頑張る」ことで、活路を見出そうとするわけですね。
「わたし、頑張ります……いっぱい頑張りますっ、みんな頑張ってますから……っ! わたし、がんばります……っ!」
ここに卯月の失敗の繰り返しがあります。卯月は、他のみんなのように、何か新しいことや、今の延長上に何か挑戦するのではなくて、それまでの恒常性の中に逃げ込んでしまう。それでは新しい何かは見つからない――というか、「卯月」というある種特異な人間に関する限り、その「やりたいことをみつける」的なアプローチ自体が間違いなわけだと僕は言っているわけです。
(ひたすら練習に打ち込むことで、自分のやり方が間違っているという事実から逃げ続ける)
そんで、逃げ腰であるがゆえに、自分の本心へと深く入り込むことで抑圧を解除するということをできない卯月の姿に対して、今週のエピソードでようやく、凛ちゃんが真っ直ぐに切り込んでいったわけです。
「誤魔化さないでよ!」
ちゃんと自分と向き合え。私はあなたのことが知りたいんだというメッセージ。
「なんでも言ってよ、しまむー」
わたしは、あなたのどんな気持ちも受け止めるよ、というメッセージ。
何か為したい目標があって、でもそれが自分には無理そうなとき、人はそれを「諦め」なくてはいけません。その過程には必ず「抑うつ」や「悲しみ」が伴います。その回避不可能な過程を回避したいと思ってしまうと、「抑うつ」は慢性化し「鬱」へとなってしまう。そんなとき、その「諦め」の過程へ向き合うには、自分のことを知りたいと欲し、受け入れようとしてくれる誰かの援助が大きな力になります。
そんなわけでようやく、卯月が苦しんでいるものの正体が白日の下にさらされ、とりあえずは、卯月の抑圧が解放されたわけですね。(まあまだ過渡的ですが)
「わたし、本当に頑張ろうと思っただけです。わたし本当にもう一度頑張ろうって。笑顔だって普通に……わたし、笑顔じゃないですか? あれ、でもわたし、舞踏会に向けて……頑張って、みんなみたいにきらきらしなきゃ、歌とかお芝居とか、ダンスとか色々、みんな何かみつけてて――頑張ったんです! わたし、レッスン大好きだし! 頑張ってったらもっとレッスンしたら――あの……。でも、ちっともわからなくて、わたしの中のきらきらするもの、なんだかわからなくて。このままだったらどうしよう、もしこのまま時間がきちゃったら――怖いよっ……もし、わたしだけ何にも見つからなかったら、どうしよう……怖いよ……っ! プロデューサーさんは、わたしのいいところは笑顔だって、だけど、だけど――笑顔なんて、笑うなんて誰でもできるもんっ!! 何にもないっ、わたしには何にもっ!」
プロデューサーが追い求めた本当の「笑顔」
みんなは具体的な何かを見つけて、また色々な個性をもっているがゆえに「きらきら」しているように――卯月には見える。それに対して、卯月は自分の個性(アイデンティティ)を手に入れなくていけないという強迫に駆られて、「笑顔」や「頑張ること」に依存したわけですね。しかし、笑顔や頑張ることなんて、誰だってできるのであって、そんなものしかない自分は、アイドルとして輝けるはずがないと卯月は思っているわけです。そして、それは事実かもしれません。
――え、事実だって?
お前は何を見てきたんだ!
卯月の笑顔は最高だろうがっ!
このアニメから入ったにわか野郎がっ!
いえいえ、もう少し聞いて下さい。僕が言いたいのは、誰にでもできる貼り付けたような笑顔であれば卯月の言う通りだということなのです。
つまり、アニメアイドルマスターシンデレラガールズを通して描かれてきた「笑顔」はそのような性質のものではないというわけです。
特に2期を通じて言われていたことは、「笑顔になれる可能性」というようなフレーズでした。これはプロデューサーが口にしていて、CPの方針になっているものですね。アイドル自身が自分で行きたい方向を見つけて、その先に心からの「笑顔」を手に入れることができることを望むということです。
ですから、一貫してプロデューサーが言っている(スカウト基準でもある)「笑顔」というのは、アイドル自身の本心からの笑顔であるわけで、アイドル活動を通じてそのような笑顔を見つけられる可能性を感じる子を、彼は探し続けているわけですね。
(凛ちゃんに対しても「笑顔です」と言って彼女を――というか視聴者を困惑させていたことの正体というのはこのようなわけです)
(この子の笑顔は何かプロデューサーに対する別のあれがある気もするが)
「どうだった?」
「いいステージでした」
「(喜)」
まあともかく、そのような笑顔というのは、そこらへんにごろごろ転がっているようなものでなく、追い求めて手に入れるようなものとして捉えられているわけです。
というわけで、ここに卯月という女の子の特異性を見出すヒントがあるように、僕は思えるのです。
つまり、卯月は、そのように追い求めるまでもなく、心から笑顔でいることのできる女の子であったんじゃないかと。
目標の末に何かを実現したり表現できたりするということも、一つの自己実現で、そこで手に入る笑顔というものも尊いものだと思います。
しかし、僕的に言ってしまうと、それというのはどこか代償的な面があるような気もするのです。つまり、今あるがままに、自分のしたいことを楽しみ、頑張りたいことを頑張ることができないから、何かを自己実現したり、個性を手に入れて自分というものを確かにしたいという欲求を抱くんじゃないかと。
究極的には、自分のためだけに生きられないから、どこか社会や他者を意識した夢なり目標なりを追うということをこれは意味しています。つまり、「外の視線」を意識して、どこか「説明できる」カタチで自分のやりたいこと、というのをやらなければいけないと、多くの人は無意識のうちに思っている。
自分が楽しいから、ただしたいようにしたいことをして笑顔でいられたのが、あるきっかけによってそうした在り方をわからなくなってしまった――このようなことを、「卯月は自分のためにアイドル活動するということをできなくなってしまった」と、この文章の初めの方で表現したわけでした。
(卯月は練習もお仕事もただ楽しかったけれど、それを誰かに説明できる「叙述可能な何か」に成型しなければならないと思い込んでしまったわけですね)
元々の卯月の在り方というのは、実に特異です。本当は誰もがそのように在りたいけれど、難しく感じていることです。もしそんな生き方をしていて、生き生きと、きらきらと輝く笑顔でいるひとがいたらーーそんな人を、自分の生き方に迷っている人が見てしまったら、とっても眩しくて、強く憧れを抱くことになると思います。そのようなものは、「誰でもできる笑顔」ではありえないのです。
「誰でもできるなんて言わないでよ。踏み出したんだよ、自分も輝けるかもって。あのときの卯月の笑顔が、きらきらで眩しかったから。あの笑顔があったから、わたし――」
社会は夢や目標をもつことを尊いこととして奨励しているように思います。そして、努力して「個性」を獲得したり、なにかを成し遂げ、「表現」している人を賞賛します。自分のあるがままに今を生き、笑顔でいることができない人は、そうやって他者を参照し、社会が与える属性を内面化して、代償的に「何者か」になることを夢見るのです。
しかしそうすればそうする程に、人は自己を「疎外」してしまうかもしれないわけです。自分な内発性とか、身体性とかいうものからどんどん離れていってしまうかもしれない。
僕は「夢」とかいうのが悪いとは言いません。あるものを志し、憧れることも、何か自分の内面から求めるものがあるのからこそなのだと思います。しかし、そうやって「言語化」したりしてしまえるものは、それをそのまま追い求めてしまうとどこかで自分から遠ざかっていってしまうものなのだと思うのです。言わば「夢」は「灯台」でいいのではないでしょうか。それは道標だけれど、それ自体が人生の目標ではない。人生とはそのような道標をもとに、どんどん新しい方向へと舵を切っていくようなもの――その航海を楽しむこと自体が醍醐味なのではないでしょうか。
だから、卯月の憧れが、きらきらが、凄く抽象的であることは、僕は良いことなのだと思います。実際、その抽象的な「灯台」をもって、卯月は目の前の練習を、お仕事を、楽しく頑張ってきたのですから。
(21話で卯月の時計を進めたののは美穂とのユニット資料のカット)
(美穂とのユニットは保留になってしまったが、写真撮影でこんな会話を交わしている)
「美穂ちゃん凄いですね」
「そんなことないよ今でもすっごい緊張するよッ!」
「そう、なんですか?」
「えへへ、そういうのって中々変えられないよね……」
「……はい」
「だけど、お仕事楽しいから!――なんて、少し偉そうだったかな」
だから卯月は「何か」を見つけるために強迫的に頑張る必要はないのだと思います。ただ、目の前の練習でもお仕事でも楽しいならそれでいい。その「笑顔」はとっても貴重で、卯月が言葉で言い表せるような個性や表現力をもった「何者か」でなくても、それを見るファンはそのアイドルの輝きに魅了されるのだから。
アイドルに何を求めて、彼女たちを見るかは、実に多様なものがあると思います。でも、本当にアイドルが輝かしくて惹きつけられるのは、彼女たちがあるがままに自己を表現できたとき、その笑顔と熱量にファンのこちらもあてられ、そして憧れるからではないでしょうか。
僕がここで書いたことと関係しているかどうかわかりませんが、僕がよくお邪魔するブログでももクロに対する熱い愛を語った記事がありますので、紹介しときます。
仲間とファンの声援を受け取って卯月はあるがままの自分を取り戻す(かも)
今回の記事で僕が書いたことが的を射ているかどうかはわかりませんが、もし多少なりと描かれていることを読み解くことができているのなら、卯月が再び笑顔を取り戻すには、皆がそうしてきたように「仲間の支え」が助けになるのだと思います。
既に書きましたが完全無欠な自己肯定感などなく、卯月も何が合っても笑顔でいられるような非人間的な少女ではない。現実の社会の中では、色々な圧力があって混乱させられることもあるのです。踏み出す足は最後まで自分のものであっても、暗闇をぬけ出すために自分に呼びかけてくれる人が居ることは大きな手助けになる。
そしてさらには、卯月が自分のために、自分が楽しいから頑張ってアイドルをすることによって、そんなあるがままの卯月の姿に笑顔を返してくれるファンの声援が、最終的には葛藤を乗り越えるグランドエンディングへと、彼女を導いてくれるのではないでしょうか。
とまあ、かなりどSな制作陣に卯月はいじめられちゃっているわけですが、アニメアイドルマスターシンデレラガールズの中心的なテーマを描くうえでそれだけのポテンシャルをもったキャラクターであったということなのだと思います。
きっと最後の大団円へ向けて貯めこんだ力(特番2回!!!)を解放してくれることでしょう。
楽しみですね!
それでは!
(NOMAKE13話。養成所の同期からファンレターをもらった卯月)
「わたし、ファンレターをもらえると、元気が出るんです。本当に、凄くうれしくって! これからも応援しますってメッセージを見ると、私はまだ、アイドルをやっていられるんだなって思えて――幸せです!……あ、あの、変でしょうか?」
「いえ、変ではありません、それが島村さんの良いところです」
これから何者かになるまでもなく、卯月はアイドル。
今はわからなくなってしまっているけれど、本当はもうそれを知っているはず。
※追記
自分自身の感じている苦しみを抑圧していた卯月は、凛ちゃんの「わたしはあんたの本当を知りたいんだ」というメッセージと、「わたしはどんなあなたでも受け入れるよ」という未央のメッセージに助けられて、ようやく自己受容することができました。
21話の段階までは、自分を相手にぶつけて、その葛藤を通して互いを受容していく主体は凛と未央の二人であって、卯月は蚊帳の外であったわけです。
それがこの段階に至って、ようやくNGの三人は本当の意味でお互いを個として受容し合う「友達」となったのでした。
未央の台詞の意味とはそういうことなのですね。
「私たちさ、もっかい友達になろうよ、今からっ」