アイドルマスターシンデレラガールズ 17話 感想 「しんどい『役割』の中でも、誰かの支えがあれば、自分を表現していけるということ」(9258文字)
アクセスが日曜日だけわけのわからないことになるのを見る限り、ガッチャマンクラウズの記事を書いてるブログと認知されているようで、僕がシンデレラガールズの記事を書くことを求められているのかはわかりませんが、当ブログは僕が書きたいと思ったものを書く(それしか書く気がない)ところなので、書きます。
今更、17話です。でも2期が始まって今のところ一番心動かされたエピソードなので書くのです。書きたいから書いちゃう。
否応なく変革を迫る現実。どう変化に対応するか。
練習に打ち込む美嘉。履き潰れた靴。顔の隠れた社員さんたち。
美嘉という個人がどう頑張ってもどうにもならない、交渉の余地のない現実の圧力みたいなものを感じる。
「この道はどこへ続いているの?」
「シンデレラの舞踏会を成功させるには、皆さんがステップアップするのと同時に、知名度も上げなくてはいけません」
「でも、今の会社の状況で、バラエティ番組の企画を通すの、大変だったんじゃないですか?」
「歌やダンスだけでなく、アイドルの個性を出せるバラエティ番組も、大事だと思ったので」
逆境の中、アイドル自身の個性を伸ばすというCPの方針を貫くべく、靴を汚しながらもプロデューサーは奔走していたようです。
「この企画のために、各部署にお願いして集まっていただいた、キッズアイドルの皆さんです。今の状況をよく思っていないのは私たちだけではありません。気持ちを同じくする、他の部署とも連携していくことが、必要だと考えてのことです」
まあ当然と言えば当然ですが、この急激な方針変更の中、夢への道を諦めず歩み続けようとするアイドルとプロデューサーさんたちは、このCPだけではないわけですよね。
美城乗務の運営のもと、方針変更したアイドルたちや様々な企画が成果を上げ始めてているわけですが、その範疇にないこうした個性豊かなアイドルたちを、どう具体的な結果へと結びつけるのか。結果的に、アイドルもプロデューサーもそういう意識を強くもって行動していくことになっているわけです。
でなければ、この「とときら学園(仮)」という企画もカタチになることはなかった。
新たな可能性に心躍らせるCPの面々。
シンデレラガールズという物語の中に美城常務というキャラクタを組み込んだ意図というのは、そんなところにもあるんじゃないかとか思いました。
現実という条件の中で、自分らしく生きていくには?
(お前本当に中学生かとツッコミたくなるようなとぼけた発言を真顔でのたまう莉嘉。ツボる)
「林間学校のときも、あたしよりカブトムシとれなかったからに決まってるじゃん」
(かわいい)
莉嘉は感性が結構「男まさり」な感じですよね。カブトムシに「ロマン」を感じて、それを集めることで「競争」し、シールという「収集」を趣味としている。これらってイメージ的には「男の子」の興味であり、「行動様式」のように思えます。
一方で「ギャル」という記号にも憧れがあって、「性」というよりはそれに付随する「女性的成熟」というイメージをアイデンティティとして取り込みたいのかなという気がします。ただし、「女性的成熟」といっても色々な文化的イメージがあって、「ギャル」というのは僕はなんとなく「男性的(粗野というのか?)」なイメージがある気がして、莉嘉の元々の感性とも符号するのかな、なんて思いますね。
当然ですが、「ギャル」に憧れるのは、みじかにその記号を誰よりも体現し、そしておそらくは「創造」し「牽引」していく「カリスマ」である姉の存在があるわけですね。そういう意味で、セクシーな「ギャル」でありたいという莉嘉の発言は、「おねえちゃんみたいな」という憧れとは切って離せないのが現状です。
もちろんこれは莉嘉のアイデンティティが借り物の猿マネに過ぎないというはなしでなく、混ざり合った状態であるという話であって、内発的な自己表現の比重をどう増やしていくのかというのが、莉嘉個人としてはテーマになるのだと思います。
「とときと」「きらりの」
「「とときらがくえ~ん」」
「ぴにゃ~~」
「城ヶ崎莉嘉でーす」
おう、知ってるぞ。これはロリ向けのフェチ番組を装った、巨乳好きのおっさん向け番組だということを。
おっきいおっぱいの保母さんに癒やされたいおっさん共が、こそこそBDレコーダーに録画してはしこしこと外部記録メディアに移すんだよ。
知ってるんだ俺は。
(プロデューサーを眺める蘭子が妙にかわいいんだけれど、なんだろうこれ)
「別件があって、リハに顔を出せなくてすみません。少し変更があったようですが、大丈夫でしたか?」
「貸して~」
「あぅ! みりあちゃんにかわるねぇ~」
「私、すっごくがんばったよ! ディレクターさんにも、元気が良くていいねって言われたし。うん、じゃあ莉嘉ちゃんに代わるね」
プロデューサーにリハの成果を報告したがるみりあちゃんがめっちゃかわいい。
自分の気持ちを誰かと共有したい、頑張った自分を誰かに褒めてほしい、子供には当然の感情だし、どころか人間の「承認」をめぐる欲求において、根源的な要素です。人間同士が何のためにコミュニケーションしたがるかといえば、ほとんどこれらに類するものと言ってもいいくらいだと思う。
なにより重要なのは、幼少期のあいだにそれらの欲求が十分満たされなくては、健全に精神の発育がなされない危険性が高まる、ということです。
作中では2度、みりあちゃんがお母さんに「承認」を求めて、いずれも断念する描写がありますが、この年頃の子供が感じるその「もやもや」は中々軽く見てはいけないものだと思います。
「あ、あたしもばっちりだったよ」
「え、でも」
「大丈夫、余計な心配しないで。何言ってんの、こっちはあたしたちに任せて、そっちも頑張って」
「しょうがないじゃん、アイドルだって遊びじゃないんだから、わがままなんんて言ってらんない。でも――」
莉嘉と美嘉、この二人のシーンが続けて描写されます。
今回のお話ではこの二人が置かれた状況、葛藤というのはとても似ていますね。
美嘉はギャルとしての自分にアイデンティティを抱いていて、まだまだ表現したいものがある。そのための努力もしている。しかし、さらなる「大人」としてのイメージを会社という抗いがたい現実の代弁者から求められている。
一方莉嘉は、彼女にとっての「成熟」のイメージである「ギャル」に憧れを抱いているが、美嘉とは逆に会社から「子供」のイメージを求められている。
莉嘉はCPのみんなが頑張っている現状で、自分がわがままを言って迷惑をかけられないからと苦悩を抱え込みますが、だからといって収録で元気に振る舞えるほど割り切ることができない。
美嘉は美嘉で、トップアイドルとして会社から成果を求められる現状、一人の社会の「大人」として現実を飲み込もうとしますが、「でも――」と割り切れない気持ちをこぼしています。
(この美嘉の表情にツボる)
「聞いてよおねえちゃん、あたし、テレビで幼稚園なんだよぉ」
「はぁ?」
「そんなことじゃないよ。あたしお姉ちゃんみたいになりたいんだもん。だから絶対いや! 着るんだったら、今お姉ちゃんがやってる大人っぽいのがいい!」
「だったら辞めちゃいな、アイドルなんて。好きな服着たいだけだったら、アイドルでなくてもいいでしょ。遊び半分じゃ、真面目にやってる他の子の迷惑になるから!」
プロデューサーとの電話では、頑張っているCPに対する気持ちから素直な気持ちを相談できないでいた莉嘉ですが、直接にはCPと関係がなく、自分の理想をなんでも持っている(ように莉嘉の目には映る)美嘉に対しては素直に抱きついて甘えます。
そんな甘える莉嘉に対して、美嘉は八つ当たり気味にーーいや、八つ当たりします。
ここで何故美嘉がここまで突き放したかというと、「真面目にやってる他のこの迷惑」という正論のためでなく、自分が「わがまま」を言いたいことを呑み込んで、現実にただ従うことを(現状では)選択しているからですね。
だから、「お姉ちゃんみたいになりたい」という言葉には、現実の前に無力で自分を曲げてしまっている自分自身を意識させられるし、「お姉ちゃんがやってる大人っぽいのがいい」という無邪気な莉嘉の言葉は、「我慢している」美嘉にとっては無神経な言葉に受け止められてしまう。
しかし、ちゃんと考えてみれば、こうした美嘉の内面の葛藤を莉嘉が正確に受け取ることが難しいのはあたりまえですし、それを求めることも身勝手な話。だからやはりこれは、このあとに自分で言及するように、八つ当たりなのです。
それにもう一つ言っておくと、これは自分自身に対する言葉でもありますね。「わがまま」を言う莉嘉は、「わがまま」を言いたいのを押し留めている自分自身でもあるからです。人は、否定している自分を他者の中に見ると、その他者に攻撃的な感情を抱くようにできています。抑圧している「悪い子」の自分を他者の中に見るからです。人が人の態度や姿勢に苛立ちを覚えるのメカニズムというのは、これが大分あると思います。そんな、また余計な話。
重い気持ちを誰かと共有することの大切さ
(一人電車通勤する、沈んだ表情のみりあちゃん)
(莉嘉に八つ当たりしたことを反芻する美嘉)
ロックオン
莉嘉と美嘉の関係と続いて、次のシーンではみりあちゃんと美嘉の関係へとお話が移動する。
「私、しょんぼりなんてしてないよ。ただ、このへんがもやもやするかもぉ」
「このへん?」
「美嘉ちゃんは?」
「ちょっと、もやもやするかな」
「ねえ、みりあちゃん、ひまだったらちょっとあたしに付き合わない?」
「え?」
この二人の関係性も自分なりにちょっと整理してみたい。
自己表現という部分については、みりあちゃんは莉嘉と美嘉ほど葛藤は抱えていないわけですね。僕のフィルターを通すと、記号的なアイデンティティよりも、ただ素直で活動的なみりあちゃんの方が、まああまりいい言い方でないかもしれないけれど、「健全」に見えます。じゃあ何が問題かというと、既に言ったと通り、その「体験」を「共有」したり「承認」してもらうことのできない「欲求不満」にあるのだと思います。
この「欲求不満」が募ると、それまでできていた自分らしい自己表現がダメなような気がしてきて、代償的によくわからない行動に人は走ってしまうのだ、というようなことを、よくこのブログで書いているのですよね。まあその話まで突っ込む必要はないかもしれんけれど。
そうであるとすれば、莉嘉や美嘉がつまずいてるのはその前段階だということになるのだと思います。
まあこのシーン自体はそこらへんの違いはあまり重要でなくて、ともかくともに「もやもや」を抱えているということを「共有」したことですね。だから、一緒にちょっと出かけようと言う話になることができる。
立ち位置的には美嘉は大人なので、子供であるみりあちゃんを気にかけ誘う役割としても、動きやすいですね。
美嘉は無邪気で素直でかわいいらしいみりあちゃんのことを結構偏執的に気に入っているようですし。フヒヒ
杏老師ときらり坊の禅問答。方便に触れて悟りへと近づく莉嘉
(CPの今後にとって重要な仕事を上手くこなせていない莉嘉は、ドアノブを回す腕が重い)
「何を着たって自分は自分なんだから、服なんてなんだっていいじゃん」
「けど、お洋服は大事だよぉ☆ 自分の好きなお洋服着ると、心がはっぴはっぴ☆になるんだにぃ☆ それで、自分らしく工夫してオシャレするともっともっとはっぴはっぴ☆になるんだにぃ☆」
「でもどんな格好してても、結局きらりはきらりじゃなぁい?」
「じゃなくて、自分がテンションアップアップ☆になれるかが重要なのぉ↺」
(自分のネイルを眺める莉嘉。脚prpr)
(禅問答を聴いて悟りを開く莉嘉。)
「服」というのは、言わば人がアイデンティティのために纏う記号の代名詞みたいなもんです。杏和尚はそのことをまことに正しく洞察しておられるようで、次のように仰ている。
「服などというものは何を身につけようとそれそのままでは記号でしかなく、自己の本質とはまったく関係がない。いかに記号を身につけそれによって自己を立てようと試みようとも、むしろその行為はより自己を疎外する結果にしかならぬであろう」
まことに慧眼であらせられる。
それに対して弟子のきらり坊は、それでも自分は服にときめきを感じることがあるし、自分らしく自然な服を工夫して着れたときは、心が踊るような気持ちになるではないですかと反駁する。
その後の会話は繰り返しで、結論が述べられることはない。
しかし、その会話を聞いた莉嘉は、何か悟りにでも至ったように、表情を明るいものへと変える。
そう、つまりこれは禅問答であり、これこそまさしく「方便」というものなのである。
その会話自体に、そのまま答えがあると思ってはいけない。
一見真理が結論づけられているように見えない物事であっても、そこに含まれる本質を洞察し、経験的に「ああそうか」と腑に落ちるとき、それこそがそのあるたった一人にとっての真実への気付きとなるのだ。
その気付きがあったときは、その「方便」へと出会わせてくれた御仏に感謝しなくてはならぬ。
他力の思想~仏陀から植木等まで (叢書 魂の脱植民地化 4)
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はい、というわけでどういうことかというと、服というのは、その記号を自分自身だと思って身につけようとしても、それは結局自分でないものを自分だと思い込んでアイデンティティにしてしまう行為だから、結局自己疎外になってしまう。しかし、だから服なんてしょうもないかというと、そんなことはなく、自己の内からでる感覚に従って身に付ける、内発的な自己表現である場合には、その表現自体が自己となりうる、という話だと、僕は受け取ります。
ガッチャマン8話の記事で、はじめちゃんのファッションに言及しましたけれどあれと同じことです。
この気付きというのは、先ほど莉嘉について書いた「内発的な自己表現の比重をどう増やしていくのか」という問題の答えになると思います。
重要なのは表現すること自体であって、スモックを着せられるのは、「条件」でしかないのだと思います。置かれた条件の中で、どう「自己表現」していくか。それが新たな創造を開く端緒になるのではないでしょうか。
気持ちを誰かに受け止めてもらうということ。「役割」との折り合い
(フヒヒ☆)
(幼女を連れ回した挙句、たぬき?のコスチュームを着せ抱きしめる事案が発生)
(美嘉の前では子供らしく足をぷらぷらとさせる)
「私ね、今お姉ちゃんなの。妹が生まれて、お母さんお世話大変で、妹が泣きだすとそっちばっかりになっちゃって」
「わかるなぁ、私も莉嘉が生まれてすぐは、ママに聞いて欲しいことがあっても、美嘉ちゃんあとで、莉嘉が泣き止んでからねって」
「そう、そうなの!」
「「お姉ちゃんて辛いよね!」」
もやもやを共有した二人は、一緒に遊びにでかけ、楽しい時間を共有し、よりお互いの仲を深めます。
そうして相手に対する信頼が生まれたことで、自分の悩みを自然に表現することができるようになったわけですね。
この一緒の時間を共有したあとの吐露、というのは重要だと思いますね。
みりあちゃんはお話を聞いてもらえない欲求不満を抱えていましたが、その気持を正直に受け止めてもらえたこと、さらにはその相手が同じ経験を共有する者であったことで、癒されることができました。
そうして、あとは美嘉の「もやもや」が残されることになる。
(みりあちゃんの「辛いこと」という言葉で、一度美嘉は呆ける)
「じゃあ、美嘉ちゃんも辛いことがあったらなんでも言ってね!」
(その意識化されない「痛み」とは裏腹に、笑顔を返そうとする美嘉。彼女がずっとそうするべきだと自分を律してきたことの繰り返し)
「あたしは辛いことなんて何にも――」
(大人としてずっと我慢してきた美嘉。みりあとの時間で心は緩み、彼女の言葉に触発された無意識の痛みは限界を迎え、自然と涙となってこぼれ落ちる。それでもそれを取り繕うとする)
「ぁ、あれ。なんで、あたし。目に、ゴミでも――」
(同じお姉ちゃんであるみりあちゃんは、何も聞かず美嘉のことをそっと抱きしめる。「姉」や「大人」という「役割」から今だけは解放され、子供であることを許された美嘉は、みりあちゃんの腕の中で涙を流す)
「ごめん、みりあちゃん」
「いいよ。お姉ちゃんだって泣きたいとき、あるよね」
まあ、別に何か改めて解説するようなこともないですよね。流れをみれば感じ取れる。
それでも何か言うとすれば、この役割は「憧れ」として気を張らなくてはいけない相手である「妹」の莉嘉ではなく、同じ「お姉ちゃん」という「立場」であることを共有したみりあちゃんであったということくらいですかね。
僕は割と感動屋ですぐ涙をながすタイプなのですが、順当に泣いたよ。
僕は、誰かが誰かを癒やすとか、受け入れるとか、うまく描写されたその類のシーンでは十中八九泣きます。好きなんですよねぇ。
意識化されない心の解放のカタルシス。脚本と演出が最高に冴えた、お手本のような一連の流れだこれ。
「お母さん、こっちは私がやるから」
「ありがとうみりあ。みりあもすっかり頼もしいお姉ちゃんね」
美嘉とのやりとりを通して、「お姉ちゃん」という役割に対する辛さを他者と共有したみりあちゃん。明るい日差しが神々しい。「もやもや」はとれた模様。
みりあからすれば「大人」の美嘉であっても、自分の置かれた「役割」が辛いことがあるのは変わりないのだとわかったのが大きいと思います。大変だし、辛いこともあるのは当たり前なんだとわかりながら「役割」を受け入れるのは、その自覚がないのとでは大分違うと思う。
ただ、個人的な好みを言うと、僕は「わがまま」が好きなので、みちあちゃんの気持ちがちゃんとそれを知ってほしいと思っている人に共有されていることのわかるシーンがこのタイミングで欲しかったかな。
これですね。
まあちゃんとあるんですけどね。さすがわかってる。でも、朝のシーンで、あのやりとりのあとに続けてお母さんが言及してくれると、シナリオの流れ的には好みだったかな。
自分らしくあれない現実があるのではなく、現実の中で如何に自己を表現するか
「セクシー派カリスマギャルの、城ヶ崎莉嘉でーす!」
「にょうわー☆」「ええ、園児なのにギャルピースなんですかぁ?」
「だって、あたしはあたしだし、隠れたオシャレも忘れませーん」
(癒やされた美嘉の心に、莉嘉の言葉が自然と気づきを与える)
さて、御仏の「方便」を受け取って真理へと近づいた莉嘉はどうなったかというと、スモックでギャルピースという境地へと至る。
今度はそのスモックでギャルピースという方便を受け取った美嘉が、悟りへと一歩近づきます。
そうか、これが「縁起」というわけか。
御仏の心のなんと慈悲深きことよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
「いい番組になりそうじゃん」
「はい」
(巷で話題の72分時計。これも何かの方便なのだろうか)
こうして、「とときら学園」を方便として、日本全国へと縁起の思想は広まっていくのであった。
(迷いを断ち切った莉嘉は、「条件」を受け入れ、その中でも自己を表現する道へと歩き出す)
「やっぱ、お姉ちゃんていったらこれだよね」
「当然、なんたって私は、カリスマJC城ヶ崎莉嘉の姉だからね!」
みりあと同じく自分の「姉」としての立場を受け止めた美嘉。
一方で、「ギャル」という記号にとらわれることなく、スモックを着せられながらも自分自身の「ギャル」を生き生きと表現しようとする莉嘉は、憧れのお姉ちゃんに「カリスマJC」として認められる。
条件にとわられず、自己を表現するという答えを莉嘉に教えられた美嘉のいきいきとした姿が、大きく掲げられた看板に表現されていますね。
「いいよ、実にいい。芯があるイメージで力がある」
by わかってるカメラマンのおっちゃん
外装なんて記号は関係ないのです。むしろそれを取り込んで、自分の「芯」を表現するところに自己というのものが現れる。何を取り込んでいるかでなく、自ずから表現されるものがそのまま真のアイデンティティたるのだと僕は思います。
おしまい。
というわけで、今更ですが、アイドルマスターシンデレラガールズ17話の感想でした。
このエピソードに対する僕のフィルターを通過して出てくるテーマをまとめると、「『自分』とは取り込んだものではなく、『条件』の中で何を表現するのか、である。むしろ、新たな『条件』に飛び込むことが、より鮮明に『自己』を経験する契機となりうる」みたいな感じでしょうか。
「立場」や「条件」と折り合いつつも、いかに「自己」を殺されないで生き延びるか(美嘉と莉嘉)、みたいな。
でも、それって結構しんどいことです。勇気がいることです。それができるためには、誰かとその重さを「共有」すること(美嘉とみりあ)が必要なんですね。
新しい状況へ自分を投げ出して、その中で自己を表現しようと試みることで、「新たな自分」と出会うことができる。でもその勇気をもつためには、共に歩く「誰かの支え」が必要だ。
莉嘉と美嘉の関係。みりあちゃんと美嘉の関係。それらを描きつつ、そのことを表現した名エピソードだと僕は勝手に腑に落ちるのです。