ガッチャマンクラウズ インサイト 感想「吹き出し様は光のスペクトル。くう様の正体と、なぞなぞの答えについて、情報の整理」(4742文字)
吹出し様、光のスペクトル説
これは思いつきで、「吹き出し様はみんなの感情の状態を表している」という大方の見方と違うのですが、「その場の空気への同調傾向の強さと、それに反比例した内発的思考の低下の度合いを、色相の順序で表している」という可能性なんてのも面白いなと思いました。
光のスペクトルの順序は、
紫 → 青 → 緑 → 黄 → 橙 → 赤
ですね。
感情だけが変化の誘引ですと、もっところころ変わるはずで、はじめちゃんとゆるじいがずっと変化しないのもおかしい。赤という感情にみんなが染まるのもこ の説明だとしっくりくるなと。8話でアランがずっと青のままで、遂には食べられてしまいましたし。まあ、赤が排他性を表すという考えもありますが、個人的 にはスペクトルの順序説がしっくりきますね。
特に説得力を与えてくれるのが、「黄色の吹き出しに黄色が入ると、くうさまが生まれるのではなく、次の橙色に変化する」ことですね。
あ、黄色じゃなくて橙でもいいっぽい。この後ノースリーブの姉ちゃんは橙に変化します。
そして結構忘れ去られている設定な気がしますが、吹き出しの形状って変化するんですよね。ようはあれで感情を表しているので、色まで感情ということになるとちょっと錯綜してしまう。なのでやっぱりスペクトル説は有力だという気がします。
みんな感情的には気が立っているのに、色がバラバラ。
さらに観察してみると、つばさちゃんは大抵黄色か橙色なんですが、ゆるじいと喧嘩したときとか紫になったりしているんですよね。そうすると、「対象」というのがあるのかもしれない。対象に対する「同調性」と、「洞察(insight)能力」の発揮の度合い。洞察の度合いというより、洞察しようとしている度合いですね。対象に対する内発的思考能力を使おうとしているかどうか。
この時点ではつばさちゃんも、ゆるじいが何を考えているのかわからないなりに、相手をちゃんと見ようとしていたのかもしれない。
スペクトルが対象への「洞察(insight)」を発揮しようとしている度合いを表すのなら、はじめちゃんの言っていることも分かり易いですね。「ゲルちゃんのこと、よおく見たっすか?」というのは、相手をちゃんと「洞察(insight)」し ようとしているか、ということですね。「赤」くなってしまった人はこの洞察能力を完全に閉じてしまった人なのかもしれません。自分が内発的な思考によっ て、自分が何を見えているのかを知り、また広げようと、深めようとせず、すべて幻想と空気によって支配される。「hallo effect」というサブタイトルがありましたが、これは表面的な情報で、相手の全体を判断するというような意味合いでしたね。作中では、対象との表面的 なコミュニケーションで相手への印象をころっと変えてしまったときに吹き出しの色が変化するという描写が、幾度もありました。対象を洞察しようとする態度 をやめてしまったから変化したわけです。
スペクトルに含まれる色が洞察能力の発揮度を表しているとすれば、「灰色」は低い高いなどという水準を超越して、何物にも影響されず独立した思考のみで世界を判断する人間と いうことになります。影響されないというのは、他者の意見を聞かないというわけではなく、一度材料としてプールして、すべて例外なく吟味したうえで、自分 の結論を出すということです。人は自分の中にある意見や思考が、他所からもってきたものなのか、自分が独自で考えたものなのか、自分自身でも知ることが難 しいのです。灰色のはじめちゃんやゆるじいが如何に特殊な人間かということがわかります。
前回「人格」について書きましたが、「そうっすよね、自分のことって案外わかんないもんなんすよねぇ」というはじめちゃんの台詞は、この文脈で受け取ると分かり易い気がします。
あと黒も何か特別な意味が付加されているのだと思いますね。
※追記
「議員の方たちは、心と言葉がバラバラです。僕、息苦しくて」
それに対して、すがやんは、彼らが「下らない空気」を読んでいると言います。
スペクトルも空気に影響されていることを表す点で同じですが、何が違うかというと、そのことに自覚的かどうかですね。
空気に影響されるというよりは、自覚的に空気を読んで、自覚的に態度を決定している。よって、言葉と心がバラバラになる。議会のシーンで、誰もゲルサドラに対する同調の色を表していませんが、ある意味で空気を読むということは、自分の頭で考えている場合があるわけですね。
とまあそんな可能性を考えましたが、作中出てきた吹き出しと一貫性があるかというと、違うかなと思うシーンもあるので、もっと単純に、憎悪に類する感情があるだけとかかもしれません。
カッツェのなぞなぞの答えは?
「入れるのは簡単だけど、出すのは結構難しい、みんなの大好物ってなーんだ!」
これは、はじめちゃんたちがくうさまの正体に議論しているときにカッツェから出されたクイズ。なので、ゲル様の正体についてのヒントとして出題されたものということでしょうね。
答えがそのまま正体、なのではなく、答えがわかると自ずと正体も見えてくるというもの。はじめちゃんも実際そうでした。
「なぞなぞの答え、もちろんミーも大好物っすぅ。でも、ゲルゲルのほうが2万倍好きっすねー、see you、next week...byebye」
そしてこれが、クイズに対するヒント。
カッツェは、愚かで操り易い「群れ」をおもちゃのように支配するのが好きなのかな、とか。 「群れ」を仲違いさせたり、「群れ」同士を相争わせたり。
ゲルちゃんはみんな一緒の「群れ(的な同調した集団)」が好きですね。
そんで「群れ」に入れるのは、インサイトで描かれてきたものを見る限りにはそう難しくない。散々、人々が空気に取り込まれ、流されることを描写してきたわけで。そして今は一度入った心地よく排他的な「群れ」から、いかに抜け出すことが容易でないか、描写されています。
あと巷でよく見るのは「空気」とか「自分」とか「差別」とかですかね。他にも色々意見があるようです。もしかしたら、まったく違う切り口から解答が示されたら面白いですね。
くうさまの正体とは
(かわいい)
「なぞなぞ解けたっす」
「ほんとっすかはじめたーん」
「これ、ゲルちゃんじゃないっすね」
「ほっほうん……」
「名前が一つじゃないって、そういうことっすかぁ」
これが謎が解けたときの会話です。
「くうさまを連れ歩く人々」と「同調傾向の色(黄・橙・赤)に変わらない人への疎ましげな視線」を観察して、はじめちゃんは答えに至りました。
・ゲルサドラは「みんなの心」=「吹き出し様」を吸いきれなくなった
・ゲルサドラのお腹の中時点でくうさまの声がしている
→ 赤い吹き出し様の中には既にくうさまがいるから?
・最初吐出された後は「黄・橙」だけで、お腹の中のくうさまの声の描写はない
・吐出された吹き出し様は主に「黄・橙・赤」で、橙は中間色。赤に近づくほど同調傾向が強まるように見える
→光のスペクトル説
・黄色に黄色が吸われると強制的に橙に。橙に橙が吸われると強制的に赤になってくうさまが生まれる
→同調したいというみんなの心がゲルサドラ自身の意図を超えて発現した?
・くうさまが生まれると吹き出しが消える描写がある
・「サドラにおまかせボタン」は橙色
・橙色の吹き出し様の人が考えるのをやめてボタンを押すと「赤」になる
→自ら考えることを完全にやめて猿になったことを描写している?
・作中、くうさまが獣であることが示唆されている
・「黄・橙・赤」意外の色の人への同調圧力が強まっている
・くうさま曰く、一つにならないと大変なことになる
→実際にアランが食べられてしまう
・くうさまはみんなの心をよく知っていて、優しい言葉と抱擁で取り入るが、「黄・橙・赤」など同調傾向の色意外の人には拒絶される
・くうさまはみんなの名前を知っていて、そのことをはじめちゃんは不思議に思っている
→ゲルサドラの中で混ざり合ったたくさんの心がくうさまだから?
前回既に色々と書きましたが、僕自身の整理のためにもう一度書きたいと思います。
ゲルサドラの能力はみんなの心を知るために、それを集めることですが、赤い吹き出しとくうさまの存在については知らないらしいですね。
というわけで、くうさまは、ゲルサドラの能力から図らずも生まれてしまった存在なのだと思います。
ではそれを生み出したのは誰かというと、ゲルサドラが集めたみんなの心自体なのではないかというのが現在の情報から説明できるところじゃないかと。赤い吹き出しとくうさま自体は、ゲルサドラの中で既に生まれていましたね。橙が橙を食ったんですかね。
ともかくそうすると、その性質は、当然みんなが望んでいることなわけです。
つまり、自分のことをよくわかってくれて、よちよちと慰めてくれることを望み、自分たちと同じように同調しようとしない者を排除(もしくは呑み込んで)しまいたいと望んでいるのは、人々自身だということですね。
そもそも人は何故、よちよちと慰めてもらいたいのでしょうか。よしよしではなく、よちよち。これは、親が赤ん坊にするような態度ですね。赤ん坊であることの特徴は何かというと、何もしなくても、誰かの役に立たなくても、自分が自分であるだけで何もかも世話をしてもらえるし、肯定してもらえるということです。この「条件付きでない愛情」というのは実は人間の根源的な欲求です。誰の中にも例外なくある。それが意識化されないのは、幼少期にそれがちゃんと満たされたか、もしくはそんな欲求を抱いてはいけないと思っているかであると思います。
前の記事でも書きましたが、人は社会適応のために多かれ少なかれ、その欲求を断念して、「あるべき人格」というのを社会から取り入れてアイデンティティとします。この必要性から、幼少的に発達心理でいうところの「基本的信頼」を十分に獲得できないと、様々な形でその承認の代償を求めるようになるのです。現代社会というのは、これが十分に満たされた人、というのはそんなに多くないのだと思いますね。みんな「孤独」で「不安」を抱えている。ですから、本当はみんな、よちよちとして欲しいのだというわけです。創世記の背景も、「子宮」への回帰を連想させますね。人間を分かつ自我がなくなって、一つに帰れば、「安心」だというわけです。
るいるい……orz
欲求が十分に満たされず、人から認められ、誉められる偽りの人格を生きる(生きなくてはいけないと思い込んでいる)度合いの強い人ほど、よちよちされると、奥に封印したはずの泣いておっぱいを求める赤ん坊の自分が顔を出してしまうのです。
というわけで、さらに前回の記事では、こうして描かれた物語を、ファシズムの発動過程という枠組みでもう一つ踏み込んで書いてみた、ということでした。この部分については、実際に関係があるかは微妙なところですが、でも物語を色んな枠組みで読み取ってみるというのを、僕は面白いと思っているのでやってます。はじめちゃんについての最初の記事もそうですね。
これを書いてるうちに前回の記事で修正した方がいい点があるな、という気がしてきたのですが、まああれはあれでそのまま残しておこうと思います。くうさまが何を慰めているのか、なんのために慰めているのかという点ですね。
選挙期間中、最後まで紫のままやり続けた丈さんは、やっぱ人に流されないちゃんとした個人主義者だったっすよ。