フロム的愛の体現者としの一ノ瀬はじめ ――ガッチャマンクラウズ感想(5590文字)

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結論からいうと、僕は一ノ瀬はじめという女の子を「愛」の体現者と見ている。

一ノ瀬はじめは、本当の意味で人を愛する「能力」をもった女の子であると。

 

ガッチャマンクラウズ第12話DC版、初見のとき、はじめちゃんがカッツェと対峙したあのシーンの意味を、僕はそれほど飲み込めなかった。

というか今も、はじめちゃんが具体的に何をして、どういう理屈でカッツェを探し出し、ノート(魂)として取り込んだのかはっきりとはわからないのだが、ただ、もう少し抽象的というか、象徴的な意味で、あのやりとりの意味を、僕は僕なりに飲み込んだつもりなのだ。

 

 はじめちゃんがカッツェを見つけた瞬間、彼女はある意味での「合一」を果たしたのだ。

それは、一つの愛の達成である。

 

一体何を言っているのか、それを語るためには、僕がここでいう「愛」の中身について、先に論じておかなければならないかもしれない。

 

エーリッヒ・フロムの「愛」

僕が言う「愛」というのは、第二次大戦次にナチス・ドイツから亡命したユダヤ人心理学者、エーリッヒ・フロムの述べるところの「愛」のことである。

 

愛するということ

愛するということ

 

 

彼の述べる愛を簡潔に説明すると、「私という存在を肯定し喜ぶように、他者という存在を肯定し喜ぶような態度」とでも言えるだろうか。

ここでいう「私」と「他者」とは、それがその人であるようなその人、つまりは「あるがままの私であり彼」のことである。

さらに別の説明を加えれば、「自己を構成する要素を否定し嫌悪していない」ような状態のとき、彼は「あるがまま」であると言えるだろう。

ある人がそのようにあれることを、また、そのようにして発展し、生産的に創造的に生きられることを願い、喜ばしく思う態度をここでは「愛」という。

 

 「愛する人」の特徴 ―内発性と人間への関心―

フロムの言うところでは、そのような愛を実現しようとする人の一つの特徴があるらしい。

それは、自分の感情や思考を偽らず、真に内発的なものに従って、主体的に生きることができるということである。

僕の頭の中には、そのような愛と、愛を為せる人のイメージがあったので、この作品を視聴し始め、一ノ瀬はじめというキャラクターに触れたときから、予感のようなものを抱き始めていた。

ああこの子は、とても健全な自己愛を持っていて、人を愛せる能力をもっているキャラクターなのだな、と。

 

 もう一つ愛する能力をもった人の特徴がある。

それは、「人」というものを、どこまでも深く深く、その魂とでも呼べる核の部分まで知りたいと欲すること、そして、そのために偽らず考え続けることのできる人であるということだ。

はじめちゃんは一見、自由奔放で何も考えてないかのようなキャラクターに見える。しかし、その実、彼女は自分の中に生まれた何かについて知ろうとすることに、妥協がない。

彼女は作中、言葉にならない言葉を表現しようとして何度も悩ましそうにする。それは彼女の知的水準が低いというよりは、安易に内的感覚を合理化し説明しようとしないからではないだろうか。

 

「そういう色んなもの見えなかったら、そんなのガッチャマンとして、人としてあれじゃないっすかぁ!」

「こいつは何を言っとるんだ」

 

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このような特徴を、フロムは「愛する人」の典型的態度として挙げている。

 

またその態度は、自己だけでなく、当然他者にも適用される。

「愛する人」は、自己の内的経験からのみ世界を見ることはない。常に、客観的に他者を見ることで、真に他者を理解しようとする。

また、そのように相手の中に入っていくためには、自己というものを正直に相手へと投げかける必要があるのである。

はじめちゃんは清音に対し幾度となく助言をする。MESSとただ排除すべき存在として対峙することなく、言葉を超えたコミュニケーションを実現する。累との初対面では、スーツを解除し自身の顔を晒すことで、「出会」おうとした。そして、未だかつてない程にわかりあえないベルク・カッツェという他者を知ろうと、「たくさんたくさん考え」るような女の子なのだ。

 

「ども!僕の名前は一ノ瀬はじめっす!」

 

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これはまさしく、フロムが考えるところの他者と分かり合おうとする、人を愛そうとする人間の姿である。

 

人間の抱える根源的孤独

ところで、「愛する人」の態度については述べたが、そもそも何故そのような試みをする必要があるのだろうか。

そのような愛の実践が何故必要で、それによって何を得るのだろう。

フロムによれば、それは「合一」への耐え難い欲求と説明される。

ここで詳しく論ずることはしないが、誰しも「人間」であれば、みな「孤独感」というものを抱えている。孤独の不安、である。

なぜそのような不安があるかといえば、それは人間が自然から切り離され、また理性によって、自己を認識する存在だからであろう。

その不安故に、人は誰かと結びつくことを欲する。

その様式は数多あるが、ここでは、二つの方法について説明することが、この記事の趣旨には必要となるだろう。

それは先ほどから述べているように「愛」であり、そしてもう一つが「支配(被支配)」である。

 

 エーリッヒ・フロムという人物は、先に紹介したように全体主義の悲劇の中から生まれ出たユニークな心理学者であるので、そこにみた人々の不安と、その解消の様式に注目した。

 

自由からの逃走 新版

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人は、孤独の不安から逃れるために他者を自らの一部とすることを欲し、また他者の一部となることを欲するのである。

 また人を支配したいという欲求は、他者の魂を暴き出し、それを知りたいという欲求とも密接であると、フロムは言う。

はじめちゃんが愛の態度によって他者を知ろうと欲する存在であるとすれば、他者を苦しめ支配し、その本性を暴き立てようと欲するのが、極としてのベルク・カッツェではなかろうか。

 

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わかりあえない寂しさ

「孤独」という感覚を別の言葉で言い換えれば「寂しさ」とも呼べるかもしれない。

「寂しさ」というのも、このガッチャマンクラウズという作品では幾度か出てくるキーワードである。

はじめちゃんがはっきりとその言葉を述べたのは、カッツェと最初に対峙し、対話したシーン。

朝5時頃に登る日の光が一番綺麗だと思うはじめちゃんと、星が滅びる瞬間が一番綺麗だと思うカッツェ。

虚空へ向かって何かに触れるように右腕を差し出しながら、「お腹いっぱいっすか?」と尋ねるはじめちゃん。結局、その手のひらが何かに触れることはない。

 

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「うつつちゃん、僕なんだかわかんないけど、寂しくてたまんないっす」

 

はじめちゃんは、とても自分を肯定していて、常に自分の「楽しさ」に正直に生きているけれど、それでも自らの内にある寂しさをはっきりと自覚し表現できる。

どれだけ健全な自己愛を持とうと、根源的に人は寂しさをなくすことは出来ない以上、誰かの支えを必要とする。表現できれば、うつつのように誰かの支えを得られるのであるが。

 

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ここに自己愛の難しさがある。健全な自己愛を育めなかった人間は、「おねだり」することができない。求めるまでもなく、自分の要求に答えてもらえるという経験(母の愛)がないから、恨みを抱えている場合である。

他者に手を差し伸べられる(愛を与えられる)には、自らを愛し、また他者による支えをもつ人間でなくてはならない。

 

はじめちゃんは作中2度ほど電話で母とのやりとりをするが、はっきりと姿の描写がなされないのは、所謂基本的信頼、内面化された母親(セキュアベース)の暗喩だとするのは、考えすぎだろうか。

 

「あ、一つだけ、僕は僕だよ何があっても」

 

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人は、自分を受け入れてくれる誰かと繋がる経験を積むほどに、自分が自分であることに誇りをもつ、つまり自尊心を培うことができる。

 

私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。

さて、ここまで「愛」についていくつか述べてきたが、ようやく、ラストのはじめとカッツェの対峙のシーンへと立ち返ることができそうだ。

 

ところで、これは自己愛の未熟な共依存者(フロム的には共棲的関係)の特徴であるが、他者の自分への愛を試し、拒絶されることで安心するというパターンがある。

 

「はじめたーん、なんだかんだ言ってミーのこと好きなんすね」

「好きっすよ、カッツェさんのこと、たくさんたくさん考えたっすよ」

「嘘こけぇ!こんな極悪宇宙人好きなわけないやーん!」

「好きっすよ、でも許せないっす」

「ほら本音キター!やっぱはじめちゃんムカついてるやーん!ミーのことブチ殺しに来てるやーん!」

 

これもまた、自身は愛されなかったという恨みが根本にあると説明される。

そんなカッツェに対して、はじめは引かない。カッツェのしたことを許せないと認めつつも、だからこそ、カッツェを理解し、カッツェを愛するためには、カッツェの中に愛を生み出すためにはどうすればいいかと考える。

 

「いいすねえ、カッツェさん。もっと言って欲しいっす!

 もっともっと、カッツェさんの本当を教えて欲しいっす!」

 

 カッツェの「ミーはどこにもいない」という言葉をどう解釈するか。裏を返せば「ミーはどこにでもいる」、自分は誰の中にもある悪意の反映であるとも解釈できよう。

 

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ただ、「寂しさ」という文脈から理解する場合、その意味だけにとどまらず、ベルク・カッツェという自分自身の存在が誰にも発見されない、受け入れられない寂しさを見て取ることもできると、僕は考える。

分離感から生まれる孤独の不安と寂しさは、たとえ表に現れるその克服の試みが大きくかけ離れていようと、誰にも共通してあるものなのだ。はじめちゃんは、カッツェの他者の不幸を喜ぶ気持ちが、自身にもある寂しさから生まれるものなのだとわかったのだ。

そうして、ようやくカッツェの心に触れることができたはじめちゃんは、喜びで胸が打ち震えるのを感じるのである。

 

「やっぱりそうだったんすねぇ。カッツェさんは僕っす、僕らっす!

 わかるっす。今、わかり過ぎて、胸が張り裂けそうっすーー!」

 

フロムは「愛するということ」の中でこう述べる。

「私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。」

そのとき、人は他者と結びつき、また個として存在しつつも、人間としての分離感を克服する。

 

「カッツェさん!みーっけ!」

 

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自己を嫌悪し、自己をあるがままに受け入れられなかった恨みを抱えるカッツェは、素顔を手で覆い隠しながら、必死にはじめちゃんを拒絶する。

 

「何見とんじゃボケぇーー!」

 

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そんなカッツェにはじめちゃんはキスをし、自身の胸の内を伝える。

例えベルク・カッツェがどんな存在であっても、自分は拒絶しない。自分はベルク・カッツェを知りたいと、あなたの中にも愛が育つことを信じていると――愛していると。

 

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その愛は、すべての人間に対する、例外のない愛である。

そして、はじめちゃんの愛は、カッツェを通じて、多くの人に届くのである。

 

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 必要なことは「愛の達成」ではなく「愛の実践」である

はじめちゃんはカッツェを見つけ出し、自と他の壁を乗り越える奇跡の中で寂しさを解消したが、実はこの話はそれで終わらない。

フロムは、人格とは無限性という性質をもつという。つまり、壁を乗り越えたところで愛は「達成」されるのでなく、共に壁を乗り越える奇跡を起こし続けるという「愛の実践」こそが必要であると説くのだ。

 

「もう大丈夫っす、カッツェさん。ずーっとここに居て下さいっす。

 僕の中に、ずっと、ずーっと」

「ねえねえ、はじめたんてバカなのー?すっごく良いことしたつもりー?

 究極のヒーロー気取りっすかー?」

「わかんないっす。でも僕ら、そのうちとんでもなく楽しくなるっすよー!」

 

 

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人と人との関係は、恋に落ち、結婚という契約を交わし、誓いをたてた瞬間に終わるかのように、何かどこかで達成され、完成されるようなものではないのである。

つねに人と人との関係は、お互いへの関心と理解という過程を通して経験されるものなのである。

まさしく、それこそが「愛の実践」であり、僕には一ノ瀬はじめというキャラクターが、その体現者であるとしか見えないのであった。

 

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 とまあ僕がガッチャマンクラウズを見るとそんな感じである。

「愛」というテーマに関しては、フロムの影響を強く受け、またアダルトチルドレンとか、自己愛についての著作をよく読むので、その枠組ではじめちゃんをみたとき、うまいことハマってしまったので興奮した。

そして、はじめちゃんに強く惹かれた。

こういう風に生きれたらな―というのをそのまんま体現しているのである。

そんでもってかわいらしくて、小さな身体に夢いっぱいのおっぱいを持っている(重要)

僕もはじめちゃんと一緒に写真撮りたい。家宝にします。

 

あ、ところで、僕のリアルネームも「はじめ」なので、なんかこうはじめちゃんはじめちゃんと何度も書いててむず痒くなる。

 

まあそんなことどうでもいいですね。

さて、ガッチャマンクラウズインサイト始まりました。

というか、インサイト1話を見て、面白そうだと思って、ニコ生一挙を見たのが数日前です。

一応本放送時に、7話あたりを見て興味あったんすけど、見ずじまいでした。

やばいはまってます。僕の好きなテーマばかりで楽しいです。

またなんか思いついたら書こう。

 

おしまい。