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過程に対する「充実」なしに、結果を必死に追い求める人生は、たとえそれを叶えられたとしても「幸福」ではない

夢や目標を叶える。

欲しい物が手に入る。

 

自分の中に漠然とある希望や欲求を満たし続けられれば幸せになれるだろうか。

実際のところ、それらを手に入れたとして。

ああ、自分は幸せだなぁと、そんなふうにしみじみと実感できるかはわからない。

 

欲求は欲求を呼ぶ、いくら満たしても満たされることはない。

そんなふうにもよく言われているようだし。

 

僕なんかがよく感じることがある。

欲求を抱いてそれを目指すことは、欲求が満たされないストレスとセットだということである。

 

欲求がみたされるかわからない不安ともいえるかもしれない。

夢や目標が叶えられるかどうかわからない不安とも。

 

そして何より、頑張ってその道を歩き続けたとして、

その費やした時間とエネルギーは報いられるのだろうか、とか。

 

たぶん、そういうことを考えてしまうのは、

その歩き続ける過程が辛いものとして捉えられているからだろう。

 

もし、過程そのものに満足があったら。

自分を律して、貴重な時間をそれに当てて、必死に目指すのでなかったら。

おそらく幾分か、というかほとんど、目標が叶えられるかどうかという不安は意識されないに違いない。

 

「好きなことをし続けていたら、こんなところまで来ていました」

 

だから、僕はそういうのに憧れてしまう。

 

結果のための手段として、何かをするのでなく。

何かをすることを、目的として意識するまでもなく、してしまっている。

結果は、向こうからやってくる。

 

幸せを望んで、それをめざすというより。

気づいたら「充実」していて、あれ、自分は幸せなんじゃないか、と振り返るような。

 

そういうヴィジョンを「憧れ」として抱いてしまうのは、自分がそういう充実を実践していないからだろう。

自然とそう生きている人は既に生きているのであって、おそらく目指すようなものではない。

 

しかし、そう言い切ってしまうと、救いがない。

自然とそうなっているというのは、もう失われてしまった結果であって。

ならば、やはり「見つける」しかないのだからしょうがないじゃないか。

 

ところで、「やりたいことをみつけよう」というのがよく言われているように思うが。

「やりたいこと」というのを「みつける」というのは少し違うんじゃないかと思う。

 

やりたいことの定義を深く考察する気はないが、僕のイメージを言葉にすると、

 

「自分の中に既にある衝動のままに行動化されるもので、それをすること自体に充実を感じるもの」

 

といったところ。

「やらずにはいられない」ものの中でも、喜びやら満足やらプラスの感情が働くものみたいな。

だから、「不安」や「手段」を動機として行動化されるものは「やりたいこと」としてこの場合イメージしない。

 

だからこのイメージのまま少し話しを戻すと。

幸せな人生とは、「やりたいこと」をやっていたら。

そこへさらに自分の生をよりよくしてくれる結果が付随してくるようなものである。

 

もう一度いうが、やりたいことが既に内的衝動としてそこにある場合。

そういう人は第一条件は満たしているのでそれでいいだろう。

しかし、そうでないばあ、やはりそれは見つけるしかないではないか。

 

それ自体に充実を抱けるような衝動を自分の中に見つけ。

さらに、それが結果へと繋がるような何かを、である。

 

「やりたいことをみつける」といったとき。

僕がイメージするものはそういうことだ。

 

じゃあ、どうやってそれはみつけられるのだろう。